高山支部報恩講~リーダー探し~
高山支部報恩講。
M師も、一緒だったので、五条袈裟に身を包んで、報恩講の勤行から始まる。子供たちには、大遠忌で行った散華の作法をお願いした。勤行のあとは、恒例のお斎(とき)、高山支部の女性陣のもちより山の幸が堪能できる。真ん中は、これまた恒例のMさんからの蒲郡みかん。皆さん、ありがとう。毎年の楽しみです。
ご法話は、親鸞聖人のご恩徳について。親鸞様のご恩徳とは、具体的には、どういまの私に届いているのかを、分かった気にしないで、少し丁寧に話させてもらった。聖人のおかげで、末代の泥凡夫の私が有り難い真宗念仏に出会えたのではあるが、では、いざ聖人ならではのお働きがどこにあるのか、そのご出世の意義を改めて問われると、通り一遍の答えはできても、自分に引き寄せてみると、ほんとうは何も分かっていない。そこで、皆さん考え込まれる。でも、ここが大切なところで、当たり前と分かっ
たつもりでサラッと終わるのではなく、自分に引き寄せてよく考えることで、初めて聖人ご恩徳の深さが身近に聞かせていただけるのではないだろうか。分かっていないからこそ、教えていただけるのである。
今回の高山法座は、報恩講に加えて、ぼくも子連れ参加だったので、朝座は子供会と、内容も盛りだくさん。参加も、90歳を超えた老婆から仏青の若者に、小、中学の子供たちまで幅広かった。
最後の座談会。もう逃げられない摂取不捨のお働きが届いているはずなのに、自分の至らなさで、すべてを否定されようという方に、強信者からのお勧めが続く。そのお勧めは尊く、どれも大切なことばかりだ。ただ、残念ながら、彼女は、ますます身動きがとれなくなっていかれるようだ。正論は正しいが、正論を押しつけることが、正しいとは限らない。
しばらく黙って聞いていたが、状況が膠着したところで、気分転換をすることにした。子供会でゲームをしたことで、ひらめいたのだ。子供たちも交えて、ゲームを提案。突然のゲームの指示に、皆さん、怪訝な表情。確かに、緊迫した座談の流れからはおかしい。定番の「リーダー探し」をする。一人鬼を決める。あとは、輪になったみんなが、(鬼は知らない)リーダーの簡単な動作(たとばえ手を叩くとか、肩を叩くとか)を真似て、同じ格好をする。リーダーは、真ん中の鬼に気付かれないように、すばやく行動を抱え、鬼は、みんなの視線や動作変更からリーダーを推測する。2人目までに当てると鬼勝ち、3人目なら引き分け、それ以外はリーダーの勝ちとなるというのものだ。
説明をするより、やればすぐわかる。ぼくが手を叩き開始。そこから肩を叩き、隣の人の頭を撫でるなどと動作を変えていく。でも、別にゲームだけ楽しみつもりはない。おりをみて、合掌し、声に出してお念仏する。合掌、称名を拒んでいた彼女、真似て、涙と共にお念仏をされる。
なぜ、私が手を合わせ、声に出してお念仏できるのか。ゲームを中断して、彼女にお念仏をしている、ぼくの心境を尋ねてもらった。
ぼくは率直に応えた、「涙がでるほど有り難くはないです。ぼくの心は念仏する前も、後も変わっていません。でも、手を合わせ、声にだすことを教えていただき、阿弥陀様のお心をお聞かせいただいた。そんなお念仏を喜ぶ先達の姿を真似ただけです。そこまでの先達、それは阿弥陀様のおこころにほかなくて、そこにこころ寄せるとき、ほんとうに勿体ないと思います」と。有り難くないと言っていたぼくの目からも、涙が滲んできた。
学ぶことは、まねることだ。多くの先輩同人のおかげにほかならない。
穏やかな青空の広がる日曜日。川面はキラキラと輝いている。
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