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共命鳥

 華光誌輪読法座。平日の昼間でも、遠方からの参加や仏青からの参加もあって、ちょっとにぎやか。話題の中心は、家族の介護や入院の話が多く、今はぼくも同じ立場で同感することが多くて、ちょっと話題が偏りすぎたことは反省。

 K先生の「共命鳥(ぐみょうちょう)」 の続編。

 「阿弥陀経」には、浄土に住む六鳥-白鵠(鶴)・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命鳥-の奇妙なる鳥達が、昼夜各々3度ずつ、妙なる声で法を宣べるが、浄土には畜生の名はないので、それらは阿弥陀様が慈悲のおこころによって、阿弥陀仏の法音を宣流しているというのである。まさに、阿弥陀様の願いによって、あらわれたものである。

 その最後が「共命鳥」というインドの想像上の鳥で、身体は一つなのに、頭が二つ、心も二つに分かれている、まさに二人が一つの命を共有している鳥だ。

 一説では、前世で、二つの頭(こころ)は、大変仲が悪く、いつも仲違い、ケンカをしていた。片方が「右へ行きたい」と言えば、もう一方は「私は左へいく」と言う。片方が「もっと遊びたい」と言えば、もう一方は「早く休みたい」というように、事あるごとに意見が衝突。身体が一つなら問題ないものが、一つの身体なので、常に自己主張ばかりでいがみ合を繰り返していた。そしてとうとう、片方が相手に毒を飲まて、毒殺をする。ところが、身体を共有しているのだから、相手が死ねば、自分も死ぬことであって、共に命を落としたという、実に哀しい鳥である。だから、別名、相手の業を、自分のこととして引き受けるという意味で、「共業」とも言われるそうだ。

 またある説では、共命鳥は、シロクロード生まれの想像上の鳥で、その生みの親は、鳩摩Img_7964什(くまらじゅう)三蔵さん(『阿弥陀経』の翻訳者)で、彼の葛藤や苦悩を象徴しているのだとも言われている。

 ちなみに、ぽくの輪袈裟は、浄土の六鳥があしらわれていて、共命鳥(左)も描かれているので、参考までに。どうせ、想像上の鳥ですが。

 さて、K先生は、この共命鳥の「共業」という立場を、世の人々と生きる僧侶の役割として、僧籍のある自分のこととして、厳しく受け取っておられた。

 共命という言葉を代えていうと、共業となる。これはお坊さんのことです。本来、お坊さんは共業の人なんです。絶対楽じゃない。お坊さんほど辛いものはないんです。片一方の人が死んだら自分も死ななきゃいけない。片一方が大きな病気を背負ったら、私も病気を背負わなきゃならない。だからともに苦しみ、悲しみ、痛み、みな共に味わいましょうというのがお坊さんの仕事なんです。その人と一緒に苦しむ。その人と一緒に泣く。その人と一緒に辛い目に遭う。でも、絶対文句は言えない。これが共命なんです。でも、今のお坊さんは楽すぎるね。まあ、いろいろお寺もありますがね。
 人々と共に泣き、人々と共に苦しみ、人々と共に悲しんでいくのがお坊さん。だから一人でも悲しい人がおったら、私の隣で悲しんでくださる。一人でも苦しい人がおったら、私も一緒に苦しい目に会いましょう。だから卒業できない。お坊さんになったら死ぬまでお坊さんをしなきゃならない。引退とかもありますが、それは言葉だけです。ほんとは心身ともお坊さんにならねばならない。いくら年をとろうと、どんなに病気になろうと、どんなに大きな苦悩を背負おうと、自分の一生は民衆と共に、御同朋御同行と共に苦しんでいきましょう。同じ苦しみを味わいましょうというのが、お坊さんです。だから、宗門大学(龍谷大学)で論文を書いて、ポンと印鑑一つで卒業。そんなもんじゃないです。それでなんでお坊さんといえますか。人の悲しみが分からない、人の苦しみも分からない。人の痛みも分からない。どうしてお坊さんと言えますか。自分だけノウノウとして、どうしてお坊さんでしょうか。親鸞聖人がそうでした。最低下の下の下の生活をされながら、その当時のご門徒と共に、御同朋御同行として生き抜かれた方じゃないですか。その伝統が脈々と、この750年間続いてるんです。この血を絶やすか絶やさないかは、今のお坊さんの責任ですよ。

と、ほんとうに耳の痛い、厳しいご説法だ。ただ、僧侶以外の方には人ごとになるが、共業を仏法を喜ぶ獲信者、念仏者だとしたらどうだろうか。

 まさに凡夫にない、阿弥陀様のお心そのもの。 

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