喪中
例年より、少しだけ早く、年賀状を書き終えて、投函してきた。
今年は、ずいぶん喪中のハガキをいただいた。華光の関係の方ばかりではないが、20枚以上ある。もちろん、忌むということを言わない浄土真宗では、喪中は関係ないはずだか、それはともかくも、今年もいろいろの方の訃報に接したと、実感させられる。
ハガキを見ていて、故人を全く存じあげない方が大半だが、中には、お葬式に参列した方や、弔電を送った方もある。
しかし、喪中ハガキさえ届かずに、年賀状の名簿から外す人もいる。ご本人が逝去された時だ。今年お別れした同人も、何名もおられる。あの人の顔、この人の声を思い出しながら、いまは南無阿弥陀仏となって、ぼくのところにそのおこころを届けてくださっている。
そして、最後には一枚の年賀ハガキすら必要なくなる時がやってくる。
自分自身が死ぬときである。南無阿弥陀仏
知人の家族の死を知る(普通に喪中ハガキを受け取る)→それもなくなり(知人そのものの死ぬ)→年賀状さえも書けなくなる(私の死)。これも、生きたご説法。
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