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2013年12月の14件の記事

福袋

 新春に、飮酒(おんじゅ)の罪を作る話を書いたが、年末も、また飮酒罪の話で終わる。

 一昨年から、父が、一滴もお酒を飲まなくたったことが浸透して、昨年までは年末に集まってきた日本酒が、今年は皆無となった。皆さん、逆にいろいろと気をつかってくださっている。

 ぼくは、ワインやウイスキー(しかも「響」だ!)をいただいたき、日本酒も少しだけいただいだか、正月には、ちょっと寂しい。

 リカマンの前を通りかかったら、福袋(正確には箱だけど)を売っていた。

 生涯において、正月の福袋など購入したことはなかったが、日本酒やワイン、焼酎なら、芋とか、麦とかいたように、ちゃんとジャンルわけされていて、好みを選べるので外れることはないようだ。

 720㎖の6本(日本酒は5本)入れで、5000円也。

 どれにするか迷ったけれど、大吉なら、日本酒には、久保田の万寿。焼酎は、魔王が入ってらしいが、100ケースに1つの割合。
 で結果。

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ちょうどボーナスも入ったことだし、奮発して、2種類、日本酒と焼酎(芋)を購入することにしたのだ。さっそく、日本酒を開けてみることにした。

さて、その中身は、、、。

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 「中吉」で、この5本。
 「久保田」は千寿が入っていた。定価は安いが、この近所では、プレミアがついて、1880円で売っている。「渓流」の大吟醸も、けっこうするので、総額なら、充分に元はとれている。正月は、金粉入れのお酒で、新年を祝うことにした。

 で、焼酎の方は、「芋」6本のセット。

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こちもら「中吉」。でも、この値段なら、かなりお得感はある。第一、ズラッと並べただけで、ちょっと幸福感を味わう、小市民である。
まあ、福袋で定価割れしているようなら、苦情は来るだろうしね。

てなわけで、さっそく正月を待たずに、開封されるのてあった。

けっきょく、この1年も無明の酒に酔っていた1年だったなー。

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喪中

 例年より、少しだけ早く、年賀状を書き終えて、投函してきた。

 今年は、ずいぶん喪中のハガキをいただいた。華光の関係の方ばかりではないが、20枚以上ある。もちろん、忌むということを言わない浄土真宗では、喪中は関係ないはずだか、それはともかくも、今年もいろいろの方の訃報に接したと、実感させられる。

 ハガキを見ていて、故人を全く存じあげない方が大半だが、中には、お葬式に参列した方や、弔電を送った方もある。

 しかし、喪中ハガキさえ届かずに、年賀状の名簿から外す人もいる。ご本人が逝去された時だ。今年お別れした同人も、何名もおられる。あの人の顔、この人の声を思い出しながら、いまは南無阿弥陀仏となって、ぼくのところにそのおこころを届けてくださっている。

 そして、最後には一枚の年賀ハガキすら必要なくなる時がやってくる。

 自分自身が死ぬときである。南無阿弥陀仏

 知人の家族の死を知る(普通に喪中ハガキを受け取る)→それもなくなり(知人そのものの死ぬ)→年賀状さえも書けなくなる(私の死)。これも、生きたご説法。

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退院

 約20日ぶりに、父が退院してきた。

 毎月連続で、しかも同じ病院なので、退院の手続きも手際よく進む。まあ、慣れても楽しいということはないけれど、、。

 支払いをすませ、荷物を運ぶためのカートをと取りにいくと、「あれ、先生」と呼びかける声。

 不思議なもので、病院にいるときの「先生」は、お医者さんへの呼びかけと思っているので、自分のこととは思わない。でも、呼びかけられている声は、明らかにぼくに届いてる。ちょっと戸惑いながら、念のため振りかえて見ると、京都支部のNさんの姿。え、Nさんもキョトンとした顔をされている。先日のM家の法座の懇親会でも、話を聞かせてもらったばかりだ。

 週に3度、午前に点滴に通ってられるそうだが、こちらは、入院中、毎日夕方には、病院に通って来ていたが、時間帯がズレていて合うことはなかった。それが、退院の時に鉢合わせとなった。大病院なので、お互いびっくりした。

 竹内敏晴氏のワークじゃないけれど、方向が定まり発せられた呼びかけは、けっこう届くものなんだと実感した。

 いまはどこかも悪くなく、とにかく無事に自宅に帰ってくることができた。
 お正月(修正会)や、報恩講の時、元気な姿をお見せできればいいのだけれど…。

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新年号の発送

 予定どおり、新年号が完成してきた。

 本文は、48ページ(ちょうど48願)建てで、年賀広告が、20ページ(あ、こちらは20願?)と、合わせて68ページ。

 年4回の発送には、京都や大阪の有志を、なるべく同じ人にならないようにお願いしているが、今年は、ベテランの二人のM-Mコンビにお願いした。ありがとうごさいました。

 明日から、随時、お手許に届く予定だが、表紙がどう変わったか、お楽しみに。

 (表紙だけを見て、何のデザインかがわかったら、たいしたものです。答えは、華光誌内に書いてありますが、、、)

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窓掃除

 京都支部を中心にした有志の皆さんよる基金で、窓掃除を業者に依頼することができた。

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 さすがに、”餅は餅屋”で、手際がよい。日頃、届きづらい3階の窓なども、このように、長いハシゴで清掃してくださった。窓を拭くにも、その方向(いわばガラスの目)があるそうで、日頃の窓ミガキは、傷つけることもあるそうだ。

 ただし、すりガラスの部分は、対象外。昨日、やってもらわなかったのが、別の助っ人があるので、その方にお願いしよう。

 他の場所も見積りをとってもらったが、きれいに清掃できているとの話。日頃のメンテナンスと、皆さんの行事等でのまめな清掃のおかげである。プロではないが、会館への愛着があり、こころが籠もっているということだろう。

 ありがとうごさいました。

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年末大掃除 

 年末の大掃除に、有志のみなさんがお手伝いにお出でくださる。

 近郊の学生世代の方が減ったこともあって、少数精鋭で、短時間での作業。

 窓は、基金のおかげで、業者に作業を頼んだので、日頃の手の届かないエアコンや高いところ、ベランダなどの掃除をしてもらう。子供たちも、手伝ってくれたが、下の子は、遊んでいるのやら、手伝っているのか、わからない。

 最近、『人は、なぜ集団になると怠けるのか』という本を読んだ。清掃といった単純作業でも、また行事や子供大会の時にでも、これは実感していることで、興味があった。もちろん、個人の資質もあろうが、このテーマの時、ある人の顔を思い出す。理論派(というか理屈はいえる)でも、実際の仕事がからきしダメという人に、よく出会う。けっこう真宗の坊さんによくあるタイプ(失礼?)。これが集団になって困るのは、そんな一人の人が、全体の足を引っ張り、効率を悪くする(腐ったリンゴ理論)というのだが、これも経験的に分かっていることだ。といって、一人の作業だけが効率がいいかというと、案外、監視役になる人がいた方が、さぼらずにはかどる仕事もある。結局、短時間であっても、少数精鋭で、しっかり分担し、それぞれが頑張らないと時間内でできない程度の仕事を前にするとき、みんなが集中し、一番、効率がいいと感じている。

 その意味では、今回は、人数も少なく、昼から京都支部法座があるという制約もあって、みんな集中して、作業がはかどった。

 まだ残りは、年末までに、ボチボチと手伝いをしてくださる方もある。

 お手伝いの皆さん、ありがとうございました。

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このこころは?

Img_7991  日曜日だったが、上の子は、朝からクラブにいくという。1年3ケ月もアメリカにいたで、知らぬ間に先輩になっているらしいが、腕のほうはどうか?

 午後から、下の子を連れて、京都市青少年科学センターへ。プラネタリウムがあるのでImg_8028、けっこう混んでいた。古くなって撤去されたものもあるが、ぼくが子供のころからあるレトロな展示に、ちょっと哀愁を覚える。中学生になる退屈だし、低学年では難しいが、4年生ぐらいだと、一番、楽しいようだ。

Img_8013 隣にある、京都市のエコロージセンターを覗く。ちょっとしたエコに関する展示があるのだが、ゴミを扱ったコーナーに ボリバケツのゴミ箱をあけたら、こんなもImg_8033のが、、、。

  うーん、このこころは、いかんに? 

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高山支部報恩講~リーダー探し~

 高山支部報恩講。

Img_7939   M師も、一緒だったので、五条袈裟に身を包んで、報恩講の勤行から始まる。子供たちには、大遠忌で行った散華の作法をお願いした。勤行のあとは、恒例のお斎(とき)、高山支部の女性陣のもちより山の幸が堪能できる。真ん中は、これまた恒例のMさんからの蒲郡みかん。皆さん、ありがとう。毎年の楽しみです。

 Img_7943ご法話は、親鸞聖人のご恩徳について。親鸞様のご恩徳とは、具体的には、どういまの私に届いているのかを、分かった気にしないで、少し丁寧に話させてもらった。聖人のおかげで、末代の泥凡夫の私が有り難い真宗念仏に出会えたのではあるが、では、いざ聖人ならではのお働きがどこにあるのか、そのご出世の意義を改めて問われると、通り一遍の答えはできても、自分に引き寄せてみると、ほんとうは何も分かっていない。そこで、皆さん考え込まれる。でも、ここが大切なところで、当たり前と分かっImg_7950たつもりでサラッと終わるのではなく、自分に引き寄せてよく考えることで、初めて聖人ご恩徳の深さが身近に聞かせていただけるのではないだろうか。分かっていないからこそ、教えていただけるのである。

 今回の高山法座は、報恩講に加えて、ぼくも子連れ参加だったので、朝座は子供会と、内容も盛りだくさん。参加も、90歳を超えた老婆から仏青の若者に、小、中学の子供たちまで幅広かった。

 最後の座談会。もう逃げられない摂取不捨のおImg_7961働きが届いているはずなのに、自分の至らなさで、すべてを否定されようという方に、強信者からのお勧めが続く。そのお勧めは尊く、どれも大切なことばかりだ。ただ、残念ながら、彼女は、ますます身動きがとれなくなっていかれるようだ。正論は正しいが、正論を押しつけることが、正しいとは限らない。

 しばらく黙って聞いていたが、状況が膠着したところで、気分転換をすることにした。子供会でゲームをしたことで、ひらめいたのだ。子供たちも交えて、ゲームを提案。突然のゲームの指示に、皆さん、怪訝な表情。確かに、緊迫した座談の流れからはおかしい。定番の「リーダー探し」をする。一人鬼を決める。あとは、輪になったみんなが、(鬼は知らない)リーダーの簡単な動作(たとばえ手を叩くとか、肩を叩くとか)を真似て、同じ格好をする。リーダーは、真ん中の鬼に気付かれないように、すばやく行動を抱え、鬼は、みんなの視線や動作変更からリーダーを推測する。2人目までに当てると鬼勝ち、3人目なら引き分け、それ以外はリーダーの勝ちとなるというのものだ。

 説明をするより、やればすぐわかる。ぼくが手を叩き開始。そこから肩を叩き、隣の人の頭を撫でるなどと動作を変えていく。でも、別にゲームだけ楽しみつもりはない。おりをみて、合掌し、声に出してお念仏する。合掌、称名を拒んでいた彼女、真似て、涙と共にお念仏をされる。

 なぜ、私が手を合わせ、声に出してお念仏できるのか。ゲームを中断して、彼女にお念仏Img_7953をしている、ぼくの心境を尋ねてもらった。
 ぼくは率直に応えた、「涙がでるほど有り難くはないです。ぼくの心は念仏する前も、後も変わっていません。でも、手を合わせ、声にだすことを教えていただき、阿弥陀様のお心をお聞かせいただいた。そんなお念仏を喜ぶ先達の姿を真似ただけです。そこまでの先達、それは阿弥陀様のおこころにほかなくて、そこにこころ寄せるとき、ほんとうに勿体ないと思います」と。有り難くないと言っていたぼくの目からも、涙が滲んできた。

 学ぶことは、まねることだ。多くの先輩同人のおかげにほかならない。

 穏やかな青空の広がる日曜日。川面はキラキラと輝いている。

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照蓮寺

Img_7931 高山陣屋をあとに、大急ぎで、照蓮寺に向かう。

 小高い山の上にあるが、市内から近い。

 高山市内には、二カ所の照蓮寺がある。共に大谷派(お東)だが、向かったのは、「中野照蓮寺」といわれるところ。もう一カ所は、「真宗大谷派高山別院 照蓮寺Img_7925である。高山は、お東の勢力が強い地域だ。

 ぼくが、一番、最初に、高山を訪れた時に、ここに連れてきてもらった。
 本堂は、現存する真宗本堂の最古の形式だと言われていて、国の重要文化財にも指定されている。道場形式の場合は、華光会館Img_7929のように内陣がない。しかし、その後の、浄土真宗の本堂は、手前に広い外陣があり、奥の中央が内陣、左右を余間としている。外陣が広いのは、庶民の参詣を一番に考えているからである。

 4時を回って、もうあたりは真っImg_7927暗で、誰もいない。しかし、参詣は、自由なので、やはり真っ暗な本堂にあがってお参りさせてもらった。庫裏は、夏の子供大会の会場(近江八幡YS)を思い出させる作りだ。

 ほんとうは、もう少しゆっくり見たり、高山別院にもお参りしたかったが、法座まで時間はない。結局、古い街並みも車内から眺めただけで、大急ぎで、会所となるF家に向かうことにした。

   

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高山陣屋

Img_785012月の高山法座。いつもは列車なので問題ないが、8月に子ずれで参加したら、楽しくて盛り上がった。しかし、今回は冬の飛騨路。、ノーマルタイヤしかないので、直前ギリギリまで迷ったが、週末の天気は心配なさそうだったのと、雪国出身の運転手も確保できたので、子供たちに、仏Img_7856青組も加わり、6人の旅となった。

 法座の前に少しだけ高山観光をする。ほんとうに久しぶりである。

 何十回、高山で下車していても、一度も訪れたことのない高山陣Img_7869へ。

 「陣屋」とは、江戸時代に郡代・代官が治政を行った場所。時代劇の定番、「お代官さま」という役所や役宅の総称が、陣屋である。高山の場合は、代官よりさらに上位で、当時4ヵ所しかなかった郡代に昇格しImg_7861ているだか、それだけ高山が重要な幕府の直轄領だということ。もともと金森氏が支配してきた飛騨国だが、石高以上に豊富な山林資源(木材)と地下資源(金・銀・銅・鉛など)にあったことに目をつけて、江戸幕府の直轄領、つまり天領として、幕府の経済的基盤をなした領地となり栄えたのである。

Img_7897 高山陣屋は、天領の前から、高山城主であった金森家の下屋敷をであって、数ある代官所のなかで、当時の建物が現存する全国でも唯一の貴重な遺跡なのだそうだ。

 紅葉も終わった冬の高山。空いImg_7896ているかと思ったら、団体客で、けっこう混んでいた。中国語か、韓国語の団体客が中心だった。

 思った以上に広くて、また保存状態もよくて、見どころもあって回るのに時間がかかったが、子供たちも喜んでいた。

Img_7899 役宅には、人間の生活の営みがあって、フロや便所、台所といった空間は、ある意味、道具は変わっても今日のぼくたちと地続きだ。また役所としての仕事場、たとえば、会計や事務方はそうでもないが、治安(警察や裁判所、牢獄)の部分は、疑わしいものは拷問で自白させる空間(いわゆるお白州)や牢獄Img_7905が、日常生活の部分と密着しているのが、一番、不気味だった。座らされる台は、三角に尖り、1枚40㎏もある抱き石を何枚も積み上げられて、責められていく。どう考えても痛そうだよなー。

 ところで、近くの使者の間には、僧侶を迎える籠(寺僧駕籠)が展示されていた。その隣には、土間(お白州)には、Img_7901重罪人が乗ると 囚人駕籠 (唐丸籠)が展示されている。雲泥の差だ。もちろん、時代は違うし、待遇も違っただろうけれど、一瞬、罪人として流刑された親鸞聖人のことに思いを馳せた。

 もっとも、僕たちの出ていく後生は、火の車に乗っていくんだろうけどね。南無阿弥陀仏

 

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NLP体験研修で得たこと

  真宗カウンセリング研究会での体験学習会。
  今年は、昨年に引き続き、NLP体験研修となった。

 聞き慣れない「NLP」だが、神経(N)、言語(L)、プログラム(P)のことで、1970年代にアメリカで、異なるセラピーの分野で成果を上げていた「3人の天才セラピスト」-ゲシュタルト・セラピーのフリッツ・パールズ、家族療法のバージニア・サティ-、催眠療法のミルトン・エリクソンの臨床場面を徹底的に分析し、そこに誰もが結果が出せるよう共通のパターンを見出し、まとめられていった心理学のことである。さまざまな対人的な分野や、コミニケーションの場面で、誰もが実践的に活用できるように体系化され、その後、急速に実践場面で活用されいる分野である、とのことだ。

 ある意味、実践力、特に即効性は高い。しかし、これを単なるHOW TOや、マニュアル化されたノウハウの伝授で終わるなら、操作的な人間関係を築くだけの便利なツール(道具)で終わってしまうだろう。しかし、道具は、使い方で有益にもなるし、武器や毒にもなるという説明を受けた。具体的に考えたら、包丁がそうで、ものを裁いたり切ったりするものであるが、料理に上手に使ったら有益な、なくてはならない道具だが、もし、人に向けられたら凶器になって、使い方を誤ったら、ケガをする代物となるのだ。

 それで、今回のWSも、「NLPから、よりよいコミニケーションのヒントを見つける体験研修会」と題されていた。NLPを有効に使って、よりよいコミニケーションのヒントを見いだすための実践的、体験的な集いとなった。フアシリテイター(ガイド役)のS先生の、皆さんを尊重する態度にも教えられた。お互いを尊重し、守秘義務という、安心、安全の約束に加えて、「学ぶこともOK、質問することもOK、間違うこともOK」という姿勢で、参加の皆さんを大切にしながら、参加者のペースで進行された。この参加者のペースに合わせことで、ラボール(信頼関係)が築かれ、ガイドされていくことを態度で示してくださった気がした。何かをやらせたとか、型や手順をなぞるといった操作的な態度ではなく、人間同士の生きた交流や安心感があったので、自分を開いて、積極的に参加することできた。

 最初に、どうなりたいかの「目標」をもち、何が起っているかの「感覚」を磨き、そして、柔軟に行動を変えていく「柔軟」さというNLPを象徴する話があったが、僕自身は、新しいことに積極的にチャレンジするという目標を掲げたが、そのイメージどおりのWSとなった。無数にあるスキル(コンテンツ)の中から、ほんの一部だけの学びであったが、

1)優先的表象システム(視覚、聴覚、身体感覚)VAKを知るワーク、

2)メタ・アウトカム(目標を超えたより高次な想いを理解する)ワーク

3)目標達成のたそのリソース(内的、外的な資源や資質のこと)探しのエクササイズ

4)時空を旅する AS IFのエクササイズ

などを行った。2日目は、午後から聖典講座の都合で、早退したのは残念だったが、それでも、制限時間いっぱいに積極的に自分を材料にしながら、いまより少しでもよくなったらいいなという課題に有意義に取り組むことができた。

 現実意識において、また無意識のレベルにおいても、これまでの人生の経験や出会いによって、さまざまな自己の内にも、また人間関係やスキルにおいても、豊富な隠された資源がたくさんあること、またそれだけの経験を積んできたことを、ひとつひとつ、リアルに過去を振り返り、また拾うことで、長年、滞っていた課題や仕事、自分自身のテーマに、たいへん建設的な立場から光をあてることができたのだ。

 今回は、大きな葛藤ではなく、取り組みやすい小さな葛藤や課題を材料にしたが、そのことで、逆に大きな葛藤も、同じパターンの思考があり、また解決策をもっているとも感じられたのである。

 今回のNLPの体験は、単なる思いや気持ちではなく、カラダも使って、リアルなイメージを持てたことで、難しいと思っていた仕事や課題に対して、俄然、活力とやる気が起こってきたし、必ずなし遂げられるという自信(思い込みではなく、過去の経験や人材、資源に支えられた)のようなものが芽生えたからだ。それも、外からの刺激ではなく、内にあったものが呼び起こされというか、目覚めさせられた気がしたのである。

 収穫大の研修会。来年11月の華光大会までの仕事ぶりを楽しみにしてやってください。(^。^)

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共命鳥

 華光誌輪読法座。平日の昼間でも、遠方からの参加や仏青からの参加もあって、ちょっとにぎやか。話題の中心は、家族の介護や入院の話が多く、今はぼくも同じ立場で同感することが多くて、ちょっと話題が偏りすぎたことは反省。

 K先生の「共命鳥(ぐみょうちょう)」 の続編。

 「阿弥陀経」には、浄土に住む六鳥-白鵠(鶴)・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命鳥-の奇妙なる鳥達が、昼夜各々3度ずつ、妙なる声で法を宣べるが、浄土には畜生の名はないので、それらは阿弥陀様が慈悲のおこころによって、阿弥陀仏の法音を宣流しているというのである。まさに、阿弥陀様の願いによって、あらわれたものである。

 その最後が「共命鳥」というインドの想像上の鳥で、身体は一つなのに、頭が二つ、心も二つに分かれている、まさに二人が一つの命を共有している鳥だ。

 一説では、前世で、二つの頭(こころ)は、大変仲が悪く、いつも仲違い、ケンカをしていた。片方が「右へ行きたい」と言えば、もう一方は「私は左へいく」と言う。片方が「もっと遊びたい」と言えば、もう一方は「早く休みたい」というように、事あるごとに意見が衝突。身体が一つなら問題ないものが、一つの身体なので、常に自己主張ばかりでいがみ合を繰り返していた。そしてとうとう、片方が相手に毒を飲まて、毒殺をする。ところが、身体を共有しているのだから、相手が死ねば、自分も死ぬことであって、共に命を落としたという、実に哀しい鳥である。だから、別名、相手の業を、自分のこととして引き受けるという意味で、「共業」とも言われるそうだ。

 またある説では、共命鳥は、シロクロード生まれの想像上の鳥で、その生みの親は、鳩摩Img_7964什(くまらじゅう)三蔵さん(『阿弥陀経』の翻訳者)で、彼の葛藤や苦悩を象徴しているのだとも言われている。

 ちなみに、ぽくの輪袈裟は、浄土の六鳥があしらわれていて、共命鳥(左)も描かれているので、参考までに。どうせ、想像上の鳥ですが。

 さて、K先生は、この共命鳥の「共業」という立場を、世の人々と生きる僧侶の役割として、僧籍のある自分のこととして、厳しく受け取っておられた。

 共命という言葉を代えていうと、共業となる。これはお坊さんのことです。本来、お坊さんは共業の人なんです。絶対楽じゃない。お坊さんほど辛いものはないんです。片一方の人が死んだら自分も死ななきゃいけない。片一方が大きな病気を背負ったら、私も病気を背負わなきゃならない。だからともに苦しみ、悲しみ、痛み、みな共に味わいましょうというのがお坊さんの仕事なんです。その人と一緒に苦しむ。その人と一緒に泣く。その人と一緒に辛い目に遭う。でも、絶対文句は言えない。これが共命なんです。でも、今のお坊さんは楽すぎるね。まあ、いろいろお寺もありますがね。
 人々と共に泣き、人々と共に苦しみ、人々と共に悲しんでいくのがお坊さん。だから一人でも悲しい人がおったら、私の隣で悲しんでくださる。一人でも苦しい人がおったら、私も一緒に苦しい目に会いましょう。だから卒業できない。お坊さんになったら死ぬまでお坊さんをしなきゃならない。引退とかもありますが、それは言葉だけです。ほんとは心身ともお坊さんにならねばならない。いくら年をとろうと、どんなに病気になろうと、どんなに大きな苦悩を背負おうと、自分の一生は民衆と共に、御同朋御同行と共に苦しんでいきましょう。同じ苦しみを味わいましょうというのが、お坊さんです。だから、宗門大学(龍谷大学)で論文を書いて、ポンと印鑑一つで卒業。そんなもんじゃないです。それでなんでお坊さんといえますか。人の悲しみが分からない、人の苦しみも分からない。人の痛みも分からない。どうしてお坊さんと言えますか。自分だけノウノウとして、どうしてお坊さんでしょうか。親鸞聖人がそうでした。最低下の下の下の生活をされながら、その当時のご門徒と共に、御同朋御同行として生き抜かれた方じゃないですか。その伝統が脈々と、この750年間続いてるんです。この血を絶やすか絶やさないかは、今のお坊さんの責任ですよ。

と、ほんとうに耳の痛い、厳しいご説法だ。ただ、僧侶以外の方には人ごとになるが、共業を仏法を喜ぶ獲信者、念仏者だとしたらどうだろうか。

 まさに凡夫にない、阿弥陀様のお心そのもの。 

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華光誌終わり、ルンビニーに心馳せる

  少し時間はかかったが、昨日、華光誌の本文データが完成し、そして、今日、年賀交換のページが、印刷所に渡った。不備の部分を調整して、表紙の見本を確認する。これで予定通りに年内発送をすることができる。投稿くださった皆様、ありがとうございます。

 久しぶりに、表紙を一新した。

Img_5604 7年ぶりに写真バージョンで、まずはインド仏跡から再開することにした。前回のインド版は、昭和61年から始まって、インド仏跡、中国聖跡、そしてインドネシア遺跡など、ぼくの写真で飾った。開始からもう30年前近くたつので、初期のImg_5611ことをご存じの方も少なくなっただろう。前回は、第2回インド仏跡巡拝の写真だったが、今回は、第3回インド仏跡巡拝の写真を使うことになる。その後、シルロードの旅へと移っていく予定だ。

 まずは、お誕生の地、ネパールのルンビニー園から始めることにした。

 僕自身も約30年ぶりに訪れた仏跡で、インドの変わって驚いたところ、Img_5637またまた変わっていなく驚いたところ、細々したところもふくめていろいろあったが、訪れた六大仏跡の中で一番変わったと思ったのが、釈尊の誕生の地、ルンビニー園である。公園として整備され、発掘調査が進んでいたりしたが、なんでも、日本の丹下健三氏のプランらしい(「インド仏跡巡礼」より)。

 中央のマーヤー夫人堂も、白亜の小さな建物から、ネパール寺院に代わり、外壁も白からレンガ色そのままで、風情はいま一つ。とても緑豊かな、静かな場所で、釈尊Img_5642の生誕当時の花園を彷彿させたが、いまや観光化されて、おみやげ屋がならび、リキシャーで参拝した。

 ところで、ごく最近、日本が中心となって行っていたユネスコの発掘調査で、紀元前6世紀に遡るものとされ、これまで存在は知られていなかった木造建造物の痕跡が見つかったとの記事を読んだばかりだ。詳細は、今後の調査によるが、中央には釈尊誕生にまつわるストーン(右写真)もあり、ロマンをかきたてられるニュースだ。
http://www.kyoto-np.co.jp/country/article/20131126000169

Img_5658 さて、表紙は、Rちゃん、苦心のデザイン。年内ギリギリにお手許に届くだろうから、どうぞお楽しみに。

 左写真は、中央の建物がネパール寺院風のマーヤー夫人祠堂。左手が、有名なアショカー王石柱、手前の池は、マーヤー夫人が沐浴につかった沐浴池。

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この世は、ままならず

 12月に入って、華光誌の作業が大詰めをむかえた。例年、師走の編集はたいへんで、年内発行のための期日が決められているからだ。そして、年賀交換という、もう一つ大きな作業も抱えている。こちちは、ぼくが版下を作らねばならない。

 それに加えて、今年は華光大会での役員交代の手続きもあったし、父の介護や支援のための手続きなども次々あって、とにかく毎日が追われるように過ぎている。その間にも、NLP研修会、聖典講座、伝道研究会、そして高山法座などの行事は続いたが、残念ながら、報告のブログは休んでいた。

 そんな時に、また父が、急に高熱となり、救急車を要請し、そのまま緊急入院するという事態となった。今年4度目の入院だか、9月からは毎月連続で続いている。ただ今回は、前日まで元気で、前触れのない突然の事態で、かなり戸惑ってしまった。それでも、こう毎月となると、救急車にしても、病院の繁雑な手続きにしても、慣れてくるものだ。今後も、こんな事態と、頻繁におつきあいすることになるだろうとの覚悟もしている。

 とはいっても、救急車で搬送後、深夜の病院から戻る時には、かなり疲れた。特に、昨夜は寒かったし、木枯らしが身にこたえた。

 残り日数から、綿密に計画していた華光誌の編集作業も、変更を余儀なくされて、少し弱っている。ほんと、この世は、ままならないものである。

 それでも、事務所の皆さんに大いに助けてもらって、有り難い。単なる仕事仲間ではなく、同じ念仏の同志としての絆が尊いのである。

 ふと、こんな事態に、父の口癖をを思い出した。
 「所詮、この世のなかのことは、何とでもなるわー」。
 元気な時に、仕事が遅い父のこの言葉に、何度、イライラしたことか。こちらにも仕事の段取りがあるのだ、そんな悠長に構えてもらって、困るのとこちらである。そうはいっても、確かに、そのとおりではある。それが自分の思いどおりなるかどうかは、別にしてだが、この世のことは、どんなことでもなるようになる。いや、なるようにしかならないである。でも、ぼくたちは、そんなこの世のこと、今生の一大事を、何とかせねばと、必死に対応しているのである。回りの皆さんを含めて、そんな姿を、嫌というほど感じさせていただいた。

 それに引き換え、後生の一大事に対してはどうだろうか。ほんとうは、成るようにはならない一大事が、ここにあるのだ。ところが、この一大事には、随分と呑気というか、「何とでもなるさ」と、悠長に構えているのではないか。まさに、轉倒(てんどう)しているのが、凡夫の迷いの姿だ。こうして、昿劫より迷い続きてきたんだろうなーと、しみじと味あわせてもらっている。

 まあ、とにかく、どうなるかはわからないが、所詮、この世のことだ。成るようにしか成らないのならば、そのようにやっていくだけである。

 とにかく、いま目の前ことを、ひとつひとつ片づけていくしかないようである。頑張ろうー。

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