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大阪支部報恩講

 大阪支部の報恩講が、華光会館で勤まる。

 「報恩講」とは、親鸞聖人の恩に報い、徳を謝する浄土真宗では最も重要な法の集いである。では、いかなることが親鸞聖人の恩徳なのか。「講」とは集いということだが、もう一つ、講義とか講演と字訓するように、「あきらか」にする、「つまびらか」にするという意味がある。親鸞聖人のご恩徳の高きことをあきらかにし、報恩謝徳の念で勤めるののが、報恩講である。

 しかし、簡単に報恩と言っても、自己中心で、無慙無愧のこの私には、遥かに遠い話である。この今生でも、大恩ある親のご恩する感じない私に、親鸞様や仏様の報うべきご恩徳など、実感することは難しい。しかし、分らないから、感じないからそれでいいということではない。もし、分らないことがあるのなら、どうすべきか。それを知る人から教えてもらうのである。教えてもらうことは、こうべを垂れて、聞かせてもらうことにほかならない。凡夫の報恩とは、そのご恩の高きことを教えてもらい、知らせてもらうという「知恩」が全てなのだ。知るからこそ、恩を感じる、実感できる「感恩」がある。つまり、恩を知り(知恩)、恩を感じる(感恩)からこそ、報恩謝徳の念も出でるのである。

 そして、それは同時に、親鸞聖人の恩徳を教えられれば教えられるほど、その広大で、深遠な恩徳は、軽々には報いることのできない恩知らずの自分を知らされることでもある。まさに、「身は粉に骨は砕きても、報いがたなき君が御徳」なのであるから、深い謝し難いご恩徳のあることを知れば知るほど、恩知らずの私と出会わざるをえない。

 では、大恩あるものに反抗するものをなんと呼ぶのか。それが五逆という大罪である。だからこそ、報恩の高きことを知れば知るほど、五逆の大罪人の自己を知らされ、ただ悔ゆるこころをむねとして、身を粉にして骨は砕きて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏申させていただくしかない。大応供とも異称される阿弥陀さまだけが、凡夫の報恩を喜んで受けてくださるのである。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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