« 西方寺と清澤満之師~三河聖跡巡拝⑹~ | トップページ | 連続での広島支部法座 »

本願を説きて経の宗致とす

 9月から担当を初めて「聖典講座」。ちょうどお正信偈が終了したので、10月から伊藤康善先生の「真宗安心一夕談」をテキストにすることにした。華光に流れる伊藤先生のお示しであり、浄土真宗の安心の要を端的に示されたもので、まさに聖教量を中心にしながらも、現量や比量の大切さに言及されているのだ。

 第1章は、「仏説を信ず」とある。その冒頭は、

浄土真宗は仏説を信じるのである。仏説とは、釈尊が大無量寿経で説かれた本願成就文である。成就文とは弥陀如来が誓われた第十八願を、釈尊が解釈されたものである。

と始まっている。なぜ本願(十八願)を信じるでも、名号を信じるでもなくて、仏説を信じるのか。しかも、その仏説とは、釈尊の十八願成就文だというのてある。ここに、見逃されがちな真宗安心上、重要なポイントが示されているといっていい。この解明のために、十八願と成就文の関係が詳細に説かれているのであるが、華光に流れている伊藤康善先生のご教示のひとつがあるといっていい。

 今回は、第2章で、第十八願文。「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、 乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法」のおこころである。

 第十八願には、衆生が仏に成るべき因果、つまり信・行・証が誓われているのである。それがそのまま南無阿弥陀仏の六字の意味ともなる。つまり、

 「信」は、至心・信楽・欲生の三信
 「行」は、乃至十念の称名で、この三信十念(仏因)が「南無」であり、
 「証」は、若不生者(往生)・不取正覚(成仏)=(仏果)が「阿弥陀仏」である。

 蓮如上人の『信心獲得章』にも、

「信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏の姿をこころうるなり」

というところである。

  本願は、釈尊による「金口説法」であるが、それは「弥陀三昧」の境地であったから、「阿弥陀様の直説」だといってもいい。が、それだけに仏々想念の、如来の微妙な深義は、凡夫には解明しがたいものがある。

その不明な点を4つの問いをもうけて(いまは略する)が疑問を設け、それに応えることが、釈尊の成就文だというのである。つまり、凡夫の代表である阿難尊者を聞き手として、本願の深い意味を「開示解釈」してくださったのである。

 この「」については、龍樹さまは、「開(塞ヲ開キ)、示(開けルヲ明カニスル)、解(物質分析ノ如く明カス)、釈(釈然、ハッキリ分明)」にすることだといわれた。

   この「説」については、『教巻』の冒頭、大無量寿経が真実の教であることを示され、その大経について、

 如来の本願を説きて経の宗致とす、
 すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり

と示されている。個人的には、長らく、「本願」が宗致(法義のもっとも肝要な事柄、すなわち要)であり、「名号」が体(本質)だと、本願と名号と簡単に理解していたが、伊藤先生の言葉に出会って、「本願が説かれる」ことが大経の要だと教えられた。つまり

 阿弥陀仏の本願を説くことをこの経のかなめとし、
 仏の名号をこの経の本質とするのである。

ということになる。阿弥陀様が、光明(縁)と名号(因)によって衆生を済度されるのに対して、釈尊は、神通力(縁)と説法(因)によって、われわれを済度くださるのである。

 次回からは、いよいよこの第十八願文の疑問に対する釈尊のご説法、開示解釈である、本願成就文のおこころをいただきたい。
  12月1日(日)昼1時30分~  奮って、ご参加ください。

|

« 西方寺と清澤満之師~三河聖跡巡拝⑹~ | トップページ | 連続での広島支部法座 »

法座と聞法」カテゴリの記事