連続での広島支部法座
11月の広島支部法座。
小雨なのに、新幹線が遅れている。浜松市付近で不発弾の処理のためで、ダイヤが乱れていたのだ。それで、ぼくが乗る時間帯は回復に向かっていて、10分ほどの遅れですんだ。
10月の広島法座は最終日曜日。だから、華光大会を挟んで、広島では三週連続の法座になるか方も、けっこうおられる。参加が少ないのではないかと心配したが、結果は、まったくその逆。皆さん、皆勤で出席くださるのが、うれしい。
それどころか、何名かの方は、お友達や初めての方も伴っての参加となって、かなりにぎやかな法座。これから、全体会は分級座談をもたほうがいいだろう。他の支部では、他の浄土真宗の会の出身者がけっこう多いが、さすがに真宗どころの広島は、そんな方は1名ほど。初参加者も、真宗が初めての方や、お友達を誘ってくださったのが、有り難かった。それぞれ人生の岐路に立っておられるようだ。どうやら、ぼくたちは自分たちで敷居を高くしているのかもしれない。
法話は、華光大会でも取り上げた「本願を信じて、念仏を申さば、仏に成る」という、歎異抄第12章のお言葉を通して。華光大会で、「いままで他のお寺などでぼんやり聴聞してきたが、初めてどこに焦点をあてて聴くのかがわかりました」と仰ってくださる方があったからだ。もちろん、仏に成るという世間の誤解や、念仏を申すことのイメージの誤りにも触れたが、主に「本願を信じる」というところに焦点をあてた。本願とは何かを、「子どもの聖典」の「念仏の救い」を輪読して、阿弥陀仏のお心について深めていった。「子ども」というと、すぐ低くみるが、けっしてこれは、甘くみることなかれだ。隅々の厳しい言葉を、皆さんはどう感じられたのかを、もう少し尋ねてもよかったかもしれない。
とにかく、華光大会で、南無阿弥陀仏に出会われた方、心境に変化があった方もあって、何かが動きだす気配を感じられた。広島、さらに島根などにも発展して、これからが楽しみな充実した法座となった。
いろいろと法悦を味わいながらの帰路となった。
さあ、夕食のあとで、あれこれ仕事を片づけと段取りを考えながら帰宅する。
でも、このあとで予想外のもう一仕事が待っていようとは、その時はまったく想像もしていなかった。やっぱり凡夫には先を見通す智慧がない。悟りは、先取りとはよくいったもので、ぼくはやっぱり無明で、無常のヤミの中。明かりも、常もないのである。南無阿弥陀仏
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