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寺院報恩講~弥陀大悲の誓願

Img_7538_4 宍粟市山崎町の願寿寺の報恩講法座に招きいただいた。

 境内の紅葉も、いまが見ろのようだ。

 お昼にお精進のお斎もいただいたが、年とともにやさしい味付けが美味しく思うようになった。Img_7532

  夜、法要の後で、このお寺のリンデンコール(菩提樹のサンスクリット名)という名のコーラス隊が歌う「弥陀大悲の誓願」。昨年の大遠忌の音楽法要でも、この和讃があった。そこから抜き出されたのか、恩徳讃のような歌曲になっていた。

    弥陀大悲の誓願を
    ふかく信ぜんひとはみな
    ねてもさめてもへだてなく
    南無阿弥陀仏をとなふべし (正像末和讃)

Img_7530_2  せっかく美声を聴かせていただいたので、急遽、この和讃についてご法話をさせていただくことにした。

 ご門徒にとっては、特に、難しい和讃ではなさそうだ。

 しかし、阿弥陀様の「大悲の誓願」とは何ですか。
 その誓願を深く信じるとは、どう信じることですか。
 また、寝ても覚めてもへだてなく念仏を称えるとはどうすることなのでImg_7566すか、と問われると、皆さん、考えだされた様子がわかる。

 第一、わが身に引きかけて、私はほんとうに、阿弥陀様の大悲の誓願を、深く信じて、寝ても覚めても隔てなく、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えておるのかと問われたならば、沈黙せざるおえないのではないだろうか。

 誓願とは、もちろん本願(四十八願の中でも第十八願)のことであるが、わざわざ「誓願」といわれるのは、生きとし生きるもの、この私を必ず救うという「願」い、もしそれが成就(実現)しないようなら、二度と仏にはならないと「誓」いを建ててくださったのである。単なる衆生への「願い」だけてなく、諸仏方への「誓い」が伴っているので、誓願というのである。

Img_7559_3  しかもそれは単なる誓願ではない。阿弥陀様の大慈悲心より起こった希有なる大誓願なのである。その大悲のおこころは、「往相廻向の大慈より、還相廻向の大悲をう」とあるように、往相・還相二廻向として施されるものである。ならば、その大悲の誓願のお心をお聞かせにを預かることが、ご聴聞だといっていい。

 また、深くとは、相対的な、浅い・深いではない。この私は、どこまで言っても浅はかなのであり、浅ましいしかないのである。けっして、闇が深めることはあっても、私の中から真実が深まることはないでである。つまり、ここでの深く信じるとは、深信であって、他力廻向の信を顕しているのである。だから、その他力信心を廻向されたものは、みな、例外なく、「ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとなふべし」なのである。つまり、他力の行と信は、離れていないのである。

 国語辞典を引くと、「べし」には、
(1)「そうすることを当然のこととして相手に要求することをあらわす」
(2)「そうすることを出来ることをあらわす」
などの意味があるという。つまりは、当然そうすべしこと、またそうすることが出来るというこのである。

 いや凡夫の私には、ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏を称えることなど出来ないといわれるかもしれない。そうではない。これは、阿弥陀様から廻向される信心に離れない称名である。だから、「そうすることを出来る」という意味大きいのではないか。喜んでいる、有り難いというのなら、何を差し置いても、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、寝ても覚めても、お念仏申させてもらうことしかない。
 それが如来様、聖人への報恩謝徳のお念仏にほかならないのである。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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