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2013年11月の20件の記事

琵琶湖の晩秋

Img_0823_2   3ケ月前、夏の終わりに訪れた琵琶湖の湖岸は、静かだった。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-28e0.html
 もう秋も終わりImg_0831_2、まもなく師走がやって来る。

  たくさんの水鳥だけが漂い、夏の静けさとはまた違う、どこかもの寂しくある静けさを漂わせている。

Img_0851_2 四季折々に変化する木々と違い、湖の変化は少ないようには思っていたが、そのImg_0833_2や空気や風情によって、季節の移ろいを感じさせられるには、充分だった。

  厳しい寒さは、まだまだこれから。Img_0842_2

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京都市動物園(2)~さまざまなフォルム~

Img_0774_2  まあ、顔もいろいろあるけれど、姿、形はもっと異なっている。

  上からみたり、下から眺めたり、後ろ姿だったり、ある意味、美しいフォルムや、色彩をしていImg_7653る者も多いなー。

  丸くなっていいるのは、レッサーパンダ。

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Img_7776  黒い固まりは、ゾウのウンチ。人間と違って、臭くないし、触れます。


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   右手の写真も、ちょっともわかりづらいImg_7659けど、水の中のカバ。

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   真上からみた、シマウマ。ただし、逆にタテガミの長さなどはわからないけど、見事な縞模様。

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京都市動物園(1)~いろいろな顔~

Img_7838 平安神宮をあとに、京都市動物園へ。もう動物園を喜ぶ年齢ではなさそうだが、アメリカでも、Kご夫妻に動物園に連れってもらい、とても楽しかったと喜んでいた。イヌやネコなどの身近動物や、うさぎやモルモットのような小動物との触れ合うことが、大好きなようだ。

Img_0772_2  京都市動物園は、歴史だけはあって、日本で2番目に古い。しかも、市民の力で出来た最初の動物園だ。ということは、それだけ設備も古く、しかも都心に近いので、面積も広くないので、ショボイという感じがするが、逆に小さな子連れには、そこがメリット(手頃で、楽)でもあっImg_0783_2て、子供たちが小さなときはよく利用していた。

Img_0789_2  それにしも、ぼくが子供のころに比べると、動物園のあり方や、存在がずいぶん変わってきた。昔は、ゾウやチンパンジー(時にはゴリラも)の芸といった見世物の要素も強かったと思うが、いまでは、すっかりImg_7701影をひそめた。いまでも残っているのがゾウに乗るといった体験や、お猿のショー、水族館のイルカショーなどの海獣の見世物だけが、ますます盛んなようだ。

Img_7704  動物の見せ方もの狭い檻に閉じ込めて単に姿形を見せるやり方から、その行動や生態を見せる展示に代わり、身近にイキイキとした動物が感じられる工夫がされたところに、人気集まっている。

Img_7732  その点、古くから出発した分、ここは古くて、臭い動物園だった。拡張するにも、敷Img_7707地は制限されているのだが、久しぶりに行くと、ずいぶん様変わりしていて、子供たちは驚いていた。ある程度、ニュース等で聞いていたので、その変わり方を見たいと思って連れてきたのであるが、動物の種類はずいぶん減っていた。というのも、まだまだ工事中半ばで、手狭感はあっImg_7740たが、小中学生が無料であることも有り難かった。そして、工事が完了した部分は、これまでの展示方法から、上からみれたり、下から眺められたり、単独から複数の動物がいたりと、いろいろと工夫されていて、新鮮だった。

Img_7692_2  まあ、そんなこんなで、いろいろな動物たちの顔や、姿が見れた。

  恐ろしい目、やさしい目、寂しい表情に、おどけた顔Img_7678に、不安げな顔。

  定番の動物に、珍しいものもで、いろいろ並べてみた。

  生物学的にはいろいろあるのだろうけれど、仏教時には、畜生と人間は、二段階違うだけで、こImg_7793んなときもあったわけで、私の業のあらわImg_7753れでもある。私の遺伝子に流れている姿でもあるのだけどね。

まあ、私は、どんな顔しているのでしょうか。ずいぶん、ましだと思っているけど…。

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京都市美術館の庭園

Img_0806_2_3 11月にしては、風も強くて肌寒い1日だった。
 しかも、午前中は、曇りがちだったが、午後遅くには、日差しがもどり、夕日も射してきて、ちょっと寒さも一服。Img_0816_2

 夕日に、紅葉の鮮やかに映えている。

 見事に真っ赤だ。

 動物園の向いにある京都市美術館の庭園で、一休みした。

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 本館は改装中だったが、お庭は静かで、きれいだった。

 東山連峰の借景も見事だ。

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平安神宮にて

Img_7571_2 3ケ月ぶりに、アメリカから子どもたちが帰って来た。

 明日から学校に復帰するが、長旅の疲れを癒し、少しだけ近場で秋を楽しむことにした。Img_0771_2

 岡崎界隈に遊びに行く。連休は、紅葉の観光客で溢れていただろうが、もう少し落ち着いていた。

Img_7580 天気が心配だったが、雨は夜半には止んだ。でも、急に冬がやってきたようで、風も強く寒い。 

 朱塗りの大鳥居をみて、Img_7582上の子が平安神宮に興味示す。4月、春爛漫の時、見事なしだれ桜を見に行ったことがあったが、覚えていないという。そういえば、まだ幼稚園のころで、下の子は、ベビーカーに乗っていたことを思い出す。このブログも、まだ始まっていなかったようで、記事はない。

Img_7633 以前、大鳥居の写真を乗せただけで、「無碍の一道とはいえ、限度がある」というお叱りのメールをいただいたことがある。その方は、鳥居を観るたびに、目を瞑り、見ないで生きてきたのだろうか。Img_0760_2

 鳥居の前で写真をといったら、米国人に声をかけられた。おお、さっそく1年3Img_0733_2ケ月の米国留学の成果を試すときが来たぞ! と思ったら、ふたりは後ずさりして、ぼくの後ろに隠れてしまった。「平安神宮はこのまま真っ直ぐいくのか」と、尋ねられたとぼくには思えた。そう、このまま真っ直ぐで、そこに応天門が見えているで、簡単に応えることができた。ところが、上の子は、Img_0765_2_2「平安神宮の「平安」の意味を尋ねられたと思った」というのである。まあ、状況からみても、それは考えにくくないか。バス停のところで、地図をもって道を探している人が、いきなり見ず知らずの人に、そんな質問はないように思えるけど…。別に話せなくても、1年以上、外人(妙な言葉だけど)に囲まれて学校をいっていたのImg_0723_2だから、臆せずに、対応ぐらいできるのかと思ったけれど、自分の意志で留学したのではないので、身につくところでまは難しいようだ。

  さてさて、肝心の平安神宮である。京都には古来より由緒正しき神社が多いなかで、明治期に創Img_7606建されている歴史の浅い神社である。東京遷都でセイトで平安遷都1100年を記念した博覧会のなかで、平安京の大内裏の建物を縮小し再現しようとしてものだそうだ。それでも、京都三大祭の一つの時代祭(学区や町内に、行列の割り当てがあったりする)もあったりもして、京都市民には馴染みの神社である。ところか、ぼくが子供のころ、ほとんどの建物Img_7639か火災(放火)で消失したニュースを覚えている。学校でも、文化財の保護に関する問題が取り上げられたことを覚えている。その後、すぐに再び蘇った建物が大方である。

 最初の写真が「應天門」、2番目が「大極殿」、3番目が「蒼龍楼」だが、いずImg_7631れも朱が鮮やかだった。大極殿の前に、右近の桜、左近の橘があるが、桜は赤く色づき、橘には覆いで囲まれていた(4番目)。

 ここまできたので、拝観料をはらってお庭(神苑)も観ることにした。ここは、桜の名所であるが、紅葉はまあまあということろ。そのせいか、観光客はほとんどなく静かな佇まいがよかった。泰平Img_7636閣(橋殿) (写真6枚目)は、京都御所から移築されて池にかかっていた。

 紅葉だけでなく、けっこう小さな花々も目を楽しませてくれた。

Img_7637_2 平安神宮をでたら、目の前にド派手な車とまって、ド派手な格好をした運転手が降りてきた。ああー、永吉タクシーですか。噂には聞いていたけれど、ほんとうに走ってるんだー。

  車はクライスラーですか。運転手さんも気合が入った出で立ちで、実際に走っているのをみられて、思わず写真を1枚。
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11月の輪読法座~それでまだ不足か

 11月の輪読法座。平日だったが、ちょっと変わった顔ぶれもいて、やや多め。

  「聖教のこころ」を読む。『阿弥陀経』の六方段である。

 本文の最後に、

疑心の私めがけて、全宇宙の諸仏方が総動員で証誠し、命懸けでお勧めされる

と書いた。

 では、なぜ、諸仏方が、総動員で、しかも命懸けで、お念仏をお勧め下さるのか。そのお心、お味わいを皆さんに尋ねてみた。

 ところが、皆さんには、仏様が命懸けで働いてくださるのは当たり前のことのようで、質問が、逆に突拍子だったようだ。だから、私の側の理由、つまり真実心も、清浄心のかけらもまったない(機無)で、雨霰のように地獄におちていく姿が哀れだと見抜かれたからとか、極難信だからとか、まったく聞く心のない私めがけたお働きだとか、要は、私の側の迷いの問題点を挙げておられた。

 確かにそのとおりではある。 この私が聞かせていただくためには、諸仏が総動員してくださる必要があったのである。

 しかし、こちら側の理由だけなら、なにも諸仏の証誠がなくても、阿弥陀様の救済だけで充分になってくる。
 諸仏の証誠の根源はどこにあるのか。諸仏方をして、阿弥陀様のご本願を、真実・まことだぞと「証誠」し、そのお念仏の教えをお勧めくださるのは、実は、その背後にこそ、阿弥陀様が立ち上がられたお心があるのだ。

 阿弥陀様は、一切の生きとし生きるもの(一切衆生)を救ってやりたいという大願を建てられたのだが、それを諸仏(代表が世自在王仏)の前で、「もしそれがかなわないのなら、私も仏にはなりません」と誓ってくださっているである。つまり、単なる願いではなく、希有なる誓いに裏打ちされたのが、弥陀の願いなのである。

 しかも、その一切の生きとし生きるものを救いたいという第十八願に先立って、そのお救いの手立てとして、第十七願を誓われて、諸仏方にわが名を褒め讃えられることがないのならば、また再び仏にはならないという願いを建てられているのである。名声聞(超)十方で、お念仏が超えすぐれることでお救いを実現させると、誓ってくださったのである。

 必死に、善を勧め、悪を戒めておられた諸仏方ではあったが、極重悪人のこの私を救うだけの手立てはもっておられなかった。だから、その諸仏の師匠である本師本仏である阿弥陀様お一人だけが、この私を見捨てずに、自らがその仏の座をおりて、法蔵比丘となり、諸仏方に頭をさげ、このような超世、希有なる大誓願を、わざわざ諸仏の前でお誓いくださったのである。

  諸仏方にすれば、自らのふがいないさと同時に、お師匠様、直々の命がけのお働きを、諸仏方も巻き込んで展開されてるのだから、もうグーの音もでず、ただひたすら、ご自身も、命懸けで、「弥陀の本願こそまことだぞ。極重悪人のお前が救われる道は、この念仏の教え以外にはない。どうか、このお念仏の教えを信じておくれ」と、東南西北下上の六方、つまり全宇宙の諸仏方が、こぞって、三千大千世界を覆うほどの舌を出だして、命懸けで、私に叫ばずにはおれないのである。

 その故に、この私にも、「南無阿弥陀仏」の大悲の呼び声が届くのである。

 それでも、まだ不足なのか!

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連続研修会にて

 寺院報恩講の布教は夕方で終わったが、引き続いて宍粟組の連続研修会の講師の依頼を受けていた。会所もそのまま。このお寺も、自坊の報恩講が終わったら、すぐに組(そ)の連研の会場と、大忙しだ。

 連研(連続研修会)とは、本派の門徒の中から法座を推進するリーダーである門徒推進委員を養成するための講座で、単なる知的勉強に留まらず、話し合い法座をめざしている。その趣旨は、けっこうなのだが、現実は、門徒も僧侶も、講師も、話し合い法座を未体験の方が大半で、単なる議論や会議で終わるケースもあるようだ。ところによっては、勉強会や講義が中心で、話し合いは形式になっていることも多いと聞いている。

 その点、この組(そ)は、積極的な話し合い法座をめざしておられるようだ。昔、ぼくなりに、ブレーンストーミングを活用し6項目にその要点をまとめた、「楽しい信仰座談会のすすめ」を、配布テキストの中央に印刷して、講義と話し合い法座をバランスよく活用されているのだ。

 とはいっても、住職の中には、このやり方に抵当がある人もいて、もっと儀礼やおまつりの話題を中心にした実用的な集まりにしたいという声もあるようだ。まあ、それも分からなくはない。カウンセリングのグループワークも同じだが、信仰座談のよさや意味は、1度や2度経験しただけでは、なかなか深いところまで知ることは難しいのだ。普通、儀礼や教義の話題ならば、専門的な知識を持つ人が正解を話せば、それでみんなが満足し、分かった気になって(実際は何も分かっていないが)終えることができるのだ。それが、だれも何も話さない沈黙が続いたり、ダラダラと愚痴話のような話題で、結論やまとめがないまま進むのだから、単なる談笑だけの意味のない時間に見えるのも当然かもしれない。

 しかも話し合い法座のよさを伝えることの厄介さは、話したり聞いたすることが、一般の誰もが出来るコミニケーションツールであって、わざわざ学ばなくてもよいという錯覚されているところにもある。話す(公式的な場で)ことが苦手だという方は多いが、聞くことが苦手だという門徒さんに出会うことは稀だ。皆さん、日頃のお説教で聞くことは出来ると思っているようだ。もっともぼくに言わせると、2席80分間は、黙って座っていることが出来る、もしくは黙っていることが得意なのであって、聞いているとは限らないのだ。

 しかしこれらは、長年の間に身についた認知(信念?)なので、少々の説明や解説ぐらいでは、なかなか崩れない。それなら、多少の抵抗があっても、実際に、率直に気持ちを語ること、相手のそれを自分を交えないで、そのまま聴くこととを、実践的に、体験的に学んでもらうのが、いちばんの早道である。Img_7570

 ということで、例年は、6名グループでの、テーマを与えた話し合いの実践練習をおこなったきた。今年は、少し進化させて、3人1組での如是我聞ゲーム(積極的傾聴法)の実践を、それぞれ役割を替えって3回おこなってもらうことにした。実質1時40分ほどの時間しかないので、デモンストレーションもなく、簡単な説明をしただけで、即実践に入る。ミニ・カウンセリングならぬ、ミニミニカウンセリングである。課題を伝えると、一度に場の空気は重たくなったのがわかる。皆さん、「そんな時間、ひとりで話ことはできない」と心配されているようだ。

 でも、とにかくやってみよう。うまくいかなくてもいいのである。

 1回目。かなり戸惑いがあって、うまくいかないグループも多い。特に、年輩の男性は、聞き役なのに、横を向いたり、うつむいたり、プリントをみたりと、聴くことができない(趣旨がまだ理解できないのか、照れ臭いのかは分からないが)。ところが、2、3度と続けていくと、明らかに雰囲気が変わってくる。終わっての分かち合いも、どんどん賑やかになり、みんなの表情が和やかになっていくのが、手にとるように分かる。

 「ほんとうはこの集いに参加したくなかったが、誰もいなくて困っていると住職に強く頼まれたので、今後、続くかどうか困っています」と率直な声も出るようにだる。それ対して、非難でも、アドバイスでも、同情でもなく、その戸惑いや不安な気持ちをそのまま受け止めて聞いてもらえるのである。だから、そんな消極的な自分でも、安心してこの集い座っていることを体験してもらえたり、また初めて会うメンバーとの親近感や信頼が芽生える、またとないいい機会となったようだ。帰り際に、「楽しかったです」と、お礼を言って帰られる方もあった。

 ただ、10名ほど参加されていた住職方の反応は半分に分かれた。喜んで参加される方と、実践になると控室に戻られた方に分かれた。ほんとうは、先頭を切ってご住職が、「聞き方、伝え方」を身につけていけば、間違いなくお寺の雰囲気は変わるのであるが、なかなかここが難しいところである。でも、肯定的に見るなら、半数は楽しく参加され、終了後に感想を分かち合った時も、「とても面白かった」と、みんな大好評だった。

 まだ研修会2回目で始まったばかり。これから1年以上、10数回の研修が控えている。これからも、安心して参加できる、率直な気持ちが表明できる場を生み出していけるのなら、ますます活発な集まりになっていくのではないか。そんな予感を持たせるように、ぼく自身中にも、温かく、スッキリした気持ちに包まれて、今回の研修を終えることができたのである。ありがとうごさいました。

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紅葉と、お宝と

Img_7534_2 無量山願寿寺の紅葉は、いまが見ごろのようだ。

 昨年の秋。まだ両親を連れて、紅葉を見に行けた。途中、疲れた父を、最後は南禅寺に備えつけてあって、車椅子に乗せたのを覚えているが、まだ元気にImg_7545_2は歩けていた。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-b615.html

 でも、もう今年は無理なようである。だから、今年は紅葉見物をImg_7540_2していなかった。

 だから、途中の山々や、ここで紅葉が見れて幸い。

 でも、撮影したのが、昼座が終わり、皆さんImg_7556_2との談笑後だったので、暗くなりかけていて、ちょっとボンヤリしているが惜しい。

 今年は、10月初旬まで、異様な暑さだったが、ここにきて例年のどおり秋が深まっている。

 日高でも、ここでも大量にカメムシが発生しているようで、どうも今年Img_7529の冬は、雪が多くなるか、寒くなるのかもしれない。

 ところで、講師部屋には、親鸞様の血脈、ご子孫様の揮毫があった「真実功徳相」とある。

 もしかすると、お若い時なの書かもしれないが、誠実なお人柄と、またお立場のご苦労が偲ばれるような書でImg_7571はある。

 もちろん、これもまた皆さんが振り返るお宝であるが、本堂の裏手に、ひときわ光る箒(ホオキ)がかかっていた。

 見るからに特別な装いがしていると思ったら、なんでも訪問販売(いわゆる押し売り)で、なんと7万円也!の品物だというのである。ある意味Img_7573_2での仏具で、お寺を中心に売り歩いているというのである。しかも、1つでも売れると、「○○寺でも購入されました」と、また宣伝になるということだ。

 確かに、普通の箒ではない。ちなみに、掃き心地どうかと尋ねたら、

 「いやー、勿体なくて掃けません!」。

 なんでも心が純粋な方が乗ると、空が飛べるんじゃないかともっぱら話題に。
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寺院報恩講~弥陀大悲の誓願

Img_7538_4 宍粟市山崎町の願寿寺の報恩講法座に招きいただいた。

 境内の紅葉も、いまが見ろのようだ。

 お昼にお精進のお斎もいただいたが、年とともにやさしい味付けが美味しく思うようになった。Img_7532

  夜、法要の後で、このお寺のリンデンコール(菩提樹のサンスクリット名)という名のコーラス隊が歌う「弥陀大悲の誓願」。昨年の大遠忌の音楽法要でも、この和讃があった。そこから抜き出されたのか、恩徳讃のような歌曲になっていた。

    弥陀大悲の誓願を
    ふかく信ぜんひとはみな
    ねてもさめてもへだてなく
    南無阿弥陀仏をとなふべし (正像末和讃)

Img_7530_2  せっかく美声を聴かせていただいたので、急遽、この和讃についてご法話をさせていただくことにした。

 ご門徒にとっては、特に、難しい和讃ではなさそうだ。

 しかし、阿弥陀様の「大悲の誓願」とは何ですか。
 その誓願を深く信じるとは、どう信じることですか。
 また、寝ても覚めてもへだてなく念仏を称えるとはどうすることなのでImg_7566すか、と問われると、皆さん、考えだされた様子がわかる。

 第一、わが身に引きかけて、私はほんとうに、阿弥陀様の大悲の誓願を、深く信じて、寝ても覚めても隔てなく、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えておるのかと問われたならば、沈黙せざるおえないのではないだろうか。

 誓願とは、もちろん本願(四十八願の中でも第十八願)のことであるが、わざわざ「誓願」といわれるのは、生きとし生きるもの、この私を必ず救うという「願」い、もしそれが成就(実現)しないようなら、二度と仏にはならないと「誓」いを建ててくださったのである。単なる衆生への「願い」だけてなく、諸仏方への「誓い」が伴っているので、誓願というのである。

Img_7559_3  しかもそれは単なる誓願ではない。阿弥陀様の大慈悲心より起こった希有なる大誓願なのである。その大悲のおこころは、「往相廻向の大慈より、還相廻向の大悲をう」とあるように、往相・還相二廻向として施されるものである。ならば、その大悲の誓願のお心をお聞かせにを預かることが、ご聴聞だといっていい。

 また、深くとは、相対的な、浅い・深いではない。この私は、どこまで言っても浅はかなのであり、浅ましいしかないのである。けっして、闇が深めることはあっても、私の中から真実が深まることはないでである。つまり、ここでの深く信じるとは、深信であって、他力廻向の信を顕しているのである。だから、その他力信心を廻向されたものは、みな、例外なく、「ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとなふべし」なのである。つまり、他力の行と信は、離れていないのである。

 国語辞典を引くと、「べし」には、
(1)「そうすることを当然のこととして相手に要求することをあらわす」
(2)「そうすることを出来ることをあらわす」
などの意味があるという。つまりは、当然そうすべしこと、またそうすることが出来るというこのである。

 いや凡夫の私には、ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏を称えることなど出来ないといわれるかもしれない。そうではない。これは、阿弥陀様から廻向される信心に離れない称名である。だから、「そうすることを出来る」という意味大きいのではないか。喜んでいる、有り難いというのなら、何を差し置いても、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、寝ても覚めても、お念仏申させてもらうことしかない。
 それが如来様、聖人への報恩謝徳のお念仏にほかならないのである。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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來人(ライト)

Img_7527   9月半ばに、近鉄十条駅の向かえ(リカマンの向かえ)に、居酒屋がオープンした。

 食菜酒肴「來人」(ライト)というお店だ。

 近くに飲食店がなかったわけではないImg_7526_2が、なぜか駅前には、この手の飲み屋はなかった。工事中から気になりつつも、オープン後もなかなか入るご縁がなくて、今日が初見参。

 オープン間もないこともあって、店内もきれいだし、平日だったが、けっこう繁盛してる。座敷は団体客で一杯で、テープル席へ。ボジョレー ヌーボーの解禁日だったこともあって、今夜はワインがお勧め。場所が場所だけに、お酒はかなり安く設Img_7524定されていたし、すべてにリーズナブルであって、悪くはなかった。

 宿泊法座の懇親会や打ち上げに使えそうだと思ったが、日曜日が休業日。

 十条油ノ小路(新堀川)の角の、任天堂の本社新社屋の工事も急ピッチで進んでいる。高速が開通したこともあって゛このあたりの風景もかなりの様変わり。

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日高支部法座~長老のお勧め

 「お嬢ちゃん、ほんとうに仏法を聞きたいですか」。

 80歳を超えた長老が、老いた身に鞭打って、中学生の女の子に問う。

 相手は、まだ中学生。大人の法座に参加してくれるだけでもうれしくて、だれも強く迫ることはなかった。

 口ごもりながらも、ほんとうの気持ちを伝える彼女の目から涙が溢れている。ホンモノだけがもつ迫力を前にすると、老若は関係ない。

 老婆が続ける。

 「もしほんとうに聞きたいのなら、こんなところでヌクヌク聞いてはダメですぞ。この席を立って、どうか聞かせてくださいと善知識に頭を下げていく。そんな式も必要ですぞ」、と。

 決して、儀式や定型の型や、方法論を言っているのではない。ぬるま湯の聞法から、一歩出る姿を教示してくださる。まさに、彼女の言葉から、真実の法り(みのり)がほとばしているのだ。

 どうご法を伝えたらいいのか。

 私達は、計らいを超えた世界を、あれこれ計らっている。それは求道者のことでなはい。伝える方もまた同じだ。相手をあれこれ配慮し、無理のない、またはスマートな伝え方ばかり考えているけれど、どこかで自分が傷つきたくないだけではないか。最後の伝わる、伝わらないは、人と人との向き合いになってくるはずだ。

 自身が喜ぶまま、信じるまま、ありのままの自分でいることでしか、伝っていかないのかもしれない。まもなく、長老は、この地を去って、娘さんの住む都会へと引き取られていくという。

 「もう戻れないかもしれないので、遺言のかわりです。ごめんなさい。」

 遺言がわりにの迫力に、皆、共に、お念仏を申させてもらった。                

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大阪支部報恩講

 大阪支部の報恩講が、華光会館で勤まる。

 「報恩講」とは、親鸞聖人の恩に報い、徳を謝する浄土真宗では最も重要な法の集いである。では、いかなることが親鸞聖人の恩徳なのか。「講」とは集いということだが、もう一つ、講義とか講演と字訓するように、「あきらか」にする、「つまびらか」にするという意味がある。親鸞聖人のご恩徳の高きことをあきらかにし、報恩謝徳の念で勤めるののが、報恩講である。

 しかし、簡単に報恩と言っても、自己中心で、無慙無愧のこの私には、遥かに遠い話である。この今生でも、大恩ある親のご恩する感じない私に、親鸞様や仏様の報うべきご恩徳など、実感することは難しい。しかし、分らないから、感じないからそれでいいということではない。もし、分らないことがあるのなら、どうすべきか。それを知る人から教えてもらうのである。教えてもらうことは、こうべを垂れて、聞かせてもらうことにほかならない。凡夫の報恩とは、そのご恩の高きことを教えてもらい、知らせてもらうという「知恩」が全てなのだ。知るからこそ、恩を感じる、実感できる「感恩」がある。つまり、恩を知り(知恩)、恩を感じる(感恩)からこそ、報恩謝徳の念も出でるのである。

 そして、それは同時に、親鸞聖人の恩徳を教えられれば教えられるほど、その広大で、深遠な恩徳は、軽々には報いることのできない恩知らずの自分を知らされることでもある。まさに、「身は粉に骨は砕きても、報いがたなき君が御徳」なのであるから、深い謝し難いご恩徳のあることを知れば知るほど、恩知らずの私と出会わざるをえない。

 では、大恩あるものに反抗するものをなんと呼ぶのか。それが五逆という大罪である。だからこそ、報恩の高きことを知れば知るほど、五逆の大罪人の自己を知らされ、ただ悔ゆるこころをむねとして、身を粉にして骨は砕きて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏申させていただくしかない。大応供とも異称される阿弥陀さまだけが、凡夫の報恩を喜んで受けてくださるのである。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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和歌山城

Img_7463 紀州和歌山55万石。徳川御三家の一つで、徳川家の西の鎮守として栄えただけでなく、礼儀正しい暴れん坊将軍、8代吉宗に代表されるように、徳川本家の将軍も輩出したとこでも有名だ。

 Img_7495希望舞台の公演会場の県民文化会館は、和歌山県庁の向かえにあった。この付近には、美術館や博物館があったりして、和歌山の文化の中心地のようだ。

 ところで、和歌山には、下津町に母の実家がある。父も、戦争中は、高野口に疎開していたし、父の第一の支援者であった兄Img_7466(ぼくの叔父)が、和歌山市内で呉服の商売をしていた。それで、毎月のように法座を開いていたこともあって、子供のころは、よく和歌山に連れてきてもらっった。いまのように高速はないので、奈良県の五条を経由しての長時間のドライブだったことを覚えている。当時は、大和地方、堺市(初芝)と、Img_7491和歌山市(堀止や冬野)で、家庭法座が開かれ、それがもとに支部制度になっていった。でも、いまや大和にも、堺や和歌山にも、支部はない。いまでも残っているのは、日高(当時の江原)だけである。

Img_7476 和歌山城も、何度か訪れているはずだ。「はずだ」と書いたのは、お城の記憶がないからだ。でも、昔のアルバムをみるとお城で写した写真が残っている。

 このあたりの和歌山市内の地名には、ボンヤリと思い当たることもある。一番近くは紀三井寺と、和歌浦に子供大会の下見に入った時だから、和歌山市内にはいるのは、30年ぶりになる。
 でも、和歌山は懐かしい場所なのImg_7484で、舞台の開場まで時間、和歌山城に入城した。もっもと、ここは初めて訪れたとしか思えなかった。

 国宝であった天守閣は、第二次大戦の消失したので、昭和33年に修復された鉄筋コンクリート製。父や母は、国宝の天守閣を眺めていたのだ。鉄筋とはいえ、なかなか品格もあって、最上階からの眺めもよく、和歌山市内、大阪府下に加えて、淡路島までハッキリ見ることImg_7486ができた。(写真では、右手の上の黒く映る島)

 紅葉は、これからが本番だろう。

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希望舞台「釈迦内柩唄」

Img_7514 希望舞台『釈迦内柩唄』の公演を観る。

 初めて見たのは昨年の6月だから、だいたい1年半ぶりだ。会場は和歌山県民文化会館。なかなかの盛況ぶりで、昼も、夜も、チケットは売り切れだと聞いていた。それだけ主催者側のしっかりした取り組みがあったようだ。

 今回は、ご招待をいただいたのImg_7455で、最前列で観ることにした。真ん中は前列から埋まっていだが、下手側の最前列に空席があったので、かぶりつきで観劇することができた。

 2度目ということもあって、ストーリーは分かっている。しかし、大筋はともかく、細かなところはけっこう忘れたり、見落としたりしているものだ。あれ、こんなシーンあったけ、なんていうとこもしばしば。

 主演の女優の目から涙が、すっと一筋流れ落ちるのが見える。客席では、同じように泣いておられる女性もあった。台詞と一緒につばきが飛ぶところも見えてくる。おかげで、プロの俳優たちの迫力ある舞台を堪能することができた。

 故人となられた作家、水上勉が、死体焼き場に従事するオンボ(隠亡)家族の生き方と、戦争中に起こった秋田県の花岡鉱山での朝鮮人労働者への大虐殺をもとにした戯曲。この劇団では1000回公演を目指していると聞いた。

  いまの舞台演出は、2年ほど前から、俳優の(画家としても有名だが)米倉斉加年氏が演出をしているので、以前とはまた雰囲気が違うらしい。しかし、ぼくは米倉演出しか知らないので、あれこれ比較することは出Img_7456来ない。最後のところのセリフはこうして終わったほうがいいんじゃないという素人演出はあるが、あくまでも勝手な想像。

 でも同じ芝居を2回見せてもらうことで、気づかせてもらうところも多かったし、細かなところまで見せてもらうことができで、とてもよかった。

 最後に、主演の有馬さん、母親役のゆかりさんと記念撮影。有馬さん、涙で一杯の顔なのに、やりとげた表情は、さすがに女優さん。

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龍泉寺とお園同行~三河聖跡巡拝⑺~

Img_7319 三河聞法旅行も、最終日は、渥美半島に移動して、田原の龍泉寺一ケ寺。田原城の鬼門に位置して、出城の役割を担っているので、なかなか立派な外観をしている。Img_7320

 出発前の宿舎で、お園さんの問答や行実を通したご法話をする。園女は、徹底的に、仰せ(勅命)を信順することに徹しておられるが、ここでの仰せとは、そのままが信心だといっていい。しかし、その如来様の仰せに、たった一言「はい」の南無阿弥陀仏が、また難中此難。園女も自力疑心の強情に涙し、苦悩し、同時に、心開明を得た変わり目の鮮やかさを歌っておられる。これはかなり華光好み(?)といっていい。ぼくにとっても、この起承転結、中でも三番の「転」のところでの、自力への見切りをつけ、他力に帰するところが、わが身のところで一味として味わえるので、うれしくなってくる。この歌、最後に紹介しておきます。(『田原のお園さん』より引用)

Img_7322 さて、30年前は、知多半島から篠島で1泊して、船を使って渥美半島に入ったことを覚えているが、お寺の記憶はほとんどない。
 今回も、お寺の由緒や、お園さんの生活や結婚の行状、渡辺崋山とのつながりや、息子(鈴木春山)の偉業などの話が中心で、どうも肝心の真宗念仏のところはモヤモヤだ。
 それでも、ここでも華光同人のお念仏に感心してくださった。それに比べて、お東では称名の声が少ないImg_0703_2、ご門徒もなかなかお念仏しないと歎いておられた。日頃は称名念仏しない皆さんも、褒められると大きな声でお念仏をされるようだ。「もっとお念仏しない」と叱咤や命令をされると反発するのになー。どこでも感心され、お褒めくださると、ますますお念仏に励むのだあるから、まさに凡夫丸出しの自性。でも、それでも「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と声に出して称えさせていただくことが、また尊いのだ。
(右写真、お花に左手がお園さんのお墓)

 お園さんの法味は、このお寺から発行されている書物で補わせてもらうことになった。「田原のお園さん」は、園女の法味が溢れる有り難い書。昭和63年の書物などで、30年前にはまだ発行されていなかった。ここでしか手に入らないようなので、わざわざ訪問する甲斐もあるかも、、。やはり現地に行って、座ってみないと、分からないこともありますから。

 一 疑ひよ ここをききわけて いんでたもう
     そちが居るゆへ 信が得られぬ

 二 疑ひに ここをのけとは 無理なこと
     胸をはなれて 何処に行きましょ

 三 疑ひよ 是非行かぬなら そこに居よ
     そちにかまはず 信をとるべし

 四 疑ひは 何処に居るかと 問ふたれば
     かわりに出て来る 念仏の声

 以上、7回に渡って綴った三河聖跡巡拝の旅もこれでやっと終了。
 ブログでの海外聖跡や聞法旅行で、初のコンプリート版となりました

⑴総括=http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-1b10.html

⑵妙源寺=http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-f1bb.html

⑶上宮寺=http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/3-6106.html

⑷応仁寺=http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/4-41af.html

⑸本證寺=http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/5-092d.html

⑹西方寺=http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/5-dba2.html

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「NLP体験研修会」のお誘い

           「NLP体験研修会」のお誘い

  昨年11月に体験研修をおこなった、「NLP」の体験研修会を、今年は2日間の日程が開催します。ご講師の定満先生は、パーソンセンタードのマインドで対応くださり、丁寧な解説や説明の上で、無理のない研修を進めてくださいました。
 今回も初めての方でも、大歓迎です。2日間無理な方は、1日だけでの参加もできます。ぼく自身も、2日目のお昼は「聖典講座」があるので、2日目の午前中までの出席ですが、楽しみにしています。詳細は、

http://dbpca.web.fc2.com/details/20131130.html

でお確かめください。

★日時:2013年 11月30日(土)10時(9時30分受付)~17時終了
               12月 1日(日)10時~16時30分終了

★会場:華光会館

★内容: NLPとは3人の天才的なセラピストの臨床場面を徹底的に分析し、その3人のスキルのパターンを体系化し、心理療法として、また、コミュニケーション技法としてリチャード・バンドラーとジョン・グリンダーによって開発されたスキルです。
 3人のセラピストとは…ゲシュタルト療法家のフリッツ・バールズ、家族療法家のバージニア・サティア、医療催眠家のミルトン・エリクソンです。
 アメリカで心理療法家、カウンセラー、ソーシャルワーカーをはじめ、教育者、弁護士、会社員など対人コミュニケーションを必要とする人々によって学ばれている新しいコミュニケーションの体系です。
  昨年行い好評につき今年度は2日間の体験研修を設定しました。よりよいコミュニケーションや楽になる生き方のヒントをみつけましょう。

★参加費:9000円(研究会会員・学生 8000円)
         1日目のみ 4500円(研究会会員・学生 4000円)

★御講師:定満有紀先生
    (ICNLP国際トレーナー、サンタフェNLP/発達心理学協会トレーナー、シニア産業カウン
   セラー)

なお、〆切を過ぎていますが、定員に達するまで募集します。それでも、なるべく前日までにはお申し込みください。お待ちしています。

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連続での広島支部法座

  11月の広島支部法座。

 小雨なのに、新幹線が遅れている。浜松市付近で不発弾の処理のためで、ダイヤが乱れていたのだ。それで、ぼくが乗る時間帯は回復に向かっていて、10分ほどの遅れですんだ。

 10月の広島法座は最終日曜日。だから、華光大会を挟んで、広島では三週連続の法座になるか方も、けっこうおられる。参加が少ないのではないかと心配したが、結果は、まったくその逆。皆さん、皆勤で出席くださるのが、うれしい。

 それどころか、何名かの方は、お友達や初めての方も伴っての参加となって、かなりにぎやかな法座。これから、全体会は分級座談をもたほうがいいだろう。他の支部では、他の浄土真宗の会の出身者がけっこう多いが、さすがに真宗どころの広島は、そんな方は1名ほど。初参加者も、真宗が初めての方や、お友達を誘ってくださったのが、有り難かった。それぞれ人生の岐路に立っておられるようだ。どうやら、ぼくたちは自分たちで敷居を高くしているのかもしれない。

 法話は、華光大会でも取り上げた「本願を信じて、念仏を申さば、仏に成る」という、歎異抄第12章のお言葉を通して。華光大会で、「いままで他のお寺などでぼんやり聴聞してきたが、初めてどこに焦点をあてて聴くのかがわかりました」と仰ってくださる方があったからだ。もちろん、仏に成るという世間の誤解や、念仏を申すことのイメージの誤りにも触れたが、主に「本願を信じる」というところに焦点をあてた。本願とは何かを、「子どもの聖典」の「念仏の救い」を輪読して、阿弥陀仏のお心について深めていった。「子ども」というと、すぐ低くみるが、けっしてこれは、甘くみることなかれだ。隅々の厳しい言葉を、皆さんはどう感じられたのかを、もう少し尋ねてもよかったかもしれない。

 とにかく、華光大会で、南無阿弥陀仏に出会われた方、心境に変化があった方もあって、何かが動きだす気配を感じられた。広島、さらに島根などにも発展して、これからが楽しみな充実した法座となった。

 いろいろと法悦を味わいながらの帰路となった。

 さあ、夕食のあとで、あれこれ仕事を片づけと段取りを考えながら帰宅する。

 でも、このあとで予想外のもう一仕事が待っていようとは、その時はまったく想像もしていなかった。やっぱり凡夫には先を見通す智慧がない。悟りは、先取りとはよくいったもので、ぼくはやっぱり無明で、無常のヤミの中。明かりも、常もないのである。南無阿弥陀仏

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本願を説きて経の宗致とす

 9月から担当を初めて「聖典講座」。ちょうどお正信偈が終了したので、10月から伊藤康善先生の「真宗安心一夕談」をテキストにすることにした。華光に流れる伊藤先生のお示しであり、浄土真宗の安心の要を端的に示されたもので、まさに聖教量を中心にしながらも、現量や比量の大切さに言及されているのだ。

 第1章は、「仏説を信ず」とある。その冒頭は、

浄土真宗は仏説を信じるのである。仏説とは、釈尊が大無量寿経で説かれた本願成就文である。成就文とは弥陀如来が誓われた第十八願を、釈尊が解釈されたものである。

と始まっている。なぜ本願(十八願)を信じるでも、名号を信じるでもなくて、仏説を信じるのか。しかも、その仏説とは、釈尊の十八願成就文だというのてある。ここに、見逃されがちな真宗安心上、重要なポイントが示されているといっていい。この解明のために、十八願と成就文の関係が詳細に説かれているのであるが、華光に流れている伊藤康善先生のご教示のひとつがあるといっていい。

 今回は、第2章で、第十八願文。「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、 乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法」のおこころである。

 第十八願には、衆生が仏に成るべき因果、つまり信・行・証が誓われているのである。それがそのまま南無阿弥陀仏の六字の意味ともなる。つまり、

 「信」は、至心・信楽・欲生の三信
 「行」は、乃至十念の称名で、この三信十念(仏因)が「南無」であり、
 「証」は、若不生者(往生)・不取正覚(成仏)=(仏果)が「阿弥陀仏」である。

 蓮如上人の『信心獲得章』にも、

「信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏の姿をこころうるなり」

というところである。

  本願は、釈尊による「金口説法」であるが、それは「弥陀三昧」の境地であったから、「阿弥陀様の直説」だといってもいい。が、それだけに仏々想念の、如来の微妙な深義は、凡夫には解明しがたいものがある。

その不明な点を4つの問いをもうけて(いまは略する)が疑問を設け、それに応えることが、釈尊の成就文だというのである。つまり、凡夫の代表である阿難尊者を聞き手として、本願の深い意味を「開示解釈」してくださったのである。

 この「」については、龍樹さまは、「開(塞ヲ開キ)、示(開けルヲ明カニスル)、解(物質分析ノ如く明カス)、釈(釈然、ハッキリ分明)」にすることだといわれた。

   この「説」については、『教巻』の冒頭、大無量寿経が真実の教であることを示され、その大経について、

 如来の本願を説きて経の宗致とす、
 すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり

と示されている。個人的には、長らく、「本願」が宗致(法義のもっとも肝要な事柄、すなわち要)であり、「名号」が体(本質)だと、本願と名号と簡単に理解していたが、伊藤先生の言葉に出会って、「本願が説かれる」ことが大経の要だと教えられた。つまり

 阿弥陀仏の本願を説くことをこの経のかなめとし、
 仏の名号をこの経の本質とするのである。

ということになる。阿弥陀様が、光明(縁)と名号(因)によって衆生を済度されるのに対して、釈尊は、神通力(縁)と説法(因)によって、われわれを済度くださるのである。

 次回からは、いよいよこの第十八願文の疑問に対する釈尊のご説法、開示解釈である、本願成就文のおこころをいただきたい。
  12月1日(日)昼1時30分~  奮って、ご参加ください。

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西方寺と清澤満之師~三河聖跡巡拝⑹~

Img_7269 聞法旅行をお願いしている旅行社は東の系統で、添乗員も大谷大学出身。ということもあってか、清澤満之師ゆかりのお寺を勧めてくださった。拝観時間も2時間と力の入った計画である。
 清澤師は、名古屋市の出身だが、東京帝国大学卒業後、25歳で京都府尋常中学校長となImg_7259ったが、その年、この大浜の西方寺の養子に入り、わずか39歳での終焉をこの寺で迎えるのである。ちなみに、今年は生誕150年とあって、各地でさまざまイベントが開催れているようだ。

Img_7260 清澤師は、華光同人には馴染みが薄いだろうがし、ぼく自身もそれほど詳しくはない。しかし、近代の浄土真宗の巨星であることは間違いないし、東と西ではその位置が異なっているとはいえ、その影響の大きさも絶大だ。伊藤康善師の『安心調べ』でも、その冒頭を飾っているし、人によっては揶揄的な表現も多いなかで、脱線することもなく高く評価されている。ちなみに2番目には取り上げられるのが、三羽烏のひとり佐々木月樵師、三河の上宮寺の出身だ。Img_0607_2

 さて、師の三十三回忌に建立された記念碑の「信ずるは力なり」の碑文に迎えられて、本堂へ。偈文のお勤めのあと、ご和讃、ご文章と続くのだか、ここでは通常の聖典ではない。Img_7272和讃がすべて清澤満之先生を讃仰するもので、清澤満之先生こそが親鸞聖人の生まれがわりだとか、先生の出生なくばこのまことの教えには会えなかたっというものが、ずらっと並んでいる。もちろん、善知識を仰ぐことは尊いことだし、弟子が讃えることは当たり前だが、これを親鸞聖人の和讃に代わって仏前の勤行するにはさすがに抵抗があった。親鸞聖人のご和讃でさえ、聖人ではなく、弥陀や釈尊、七Img_0605_2高僧の讃仰なのだ。また、ご文章のかわりに、「我が信念」の拝読。でも、郷に入れば郷に従えで、勤行はさせてもらった。その後、お東の先生方の何人かに尋ねてみたが、さすがに勤行は一般ではないらしい。それは当然だけど。

Img_0603_2 さて、質素なお墓(上の写真)に参拝したあと、庫裏の和室の間へ。二階にある四畳足らずの執筆の間(左写真)、終焉の場となった二帖の間(右下の写真)などを拝見した。また資料館では、記録や紹介映像を見せていただいた。

 でも、ここでの説明でImg_7282いちばん有り難かったのは、清澤師の『我が信念』が、愛する母上への信仰上の疑問に対する応答だということだった。しかも、その母上が、単なる有りがた屋ではなく、「薄紙一重がわからぬ」と、最後の真宗安心の関門に苦悩し、道を求め続けたことに対して、その応えを求めるために清澤師自身が求道に精進をすることとなり、その応答Img_7283が、『我が信念』だったというのである。
 長い聖跡巡拝、聞法旅行の歴史の中でも、拝観した寺院の説明で、真宗の安心の最難関である薄紙一重に触れられたお話は、始めかもしれない。ただし、華光で語られるような、信疑廃立の一念の他力廻向信で翻る世界までの鋭さはなかったが、それでも、最後の関門に苦悩する、Img_7291母への遺された形見としての書かれた生きた信心の書であるという話が聞けただけでも再発見であった。

Img_7292 資料館にあった満之師の写真。誰かが「お東のK先生に似ておられますね」と言っておられた。これは胸像ですが、うーん、どうでしょうか。そう言われればなんとなくですが、、ね。

 ちなみに、左の書は、正信偈冒頭の揮毫。複製ですが、けっこうなお値段で売られておりました。南無阿弥陀仏

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華光大会の御礼

 3日間、7座(一座と総会)の華光大会も、最後の全体会では、悟朗先生が、もうそのままが南無阿弥陀仏というお姿での生きたご説法で締めくくられ、先生を中心に、お同行が十重二十重に取り囲んで、お念仏の大合唱(合掌)で終わりました。

 お当番の日高支部や有志の皆様、またお世話の役員の皆様、ほんとうにお疲れさまでした。

 各先生方の法話も充実していたけれど、単なる充実だけでなく、(なんの打ち合わせもないのに)、それが次々とつながっていくのが、不思議でした。30代の講師が2名、50代が3名と、ずいぶん若返りました。もう誰も、伊藤康善先生の直接の薫陶を受けていない(先生と会ったとして、まだ子供だった)ものばかりですが、悟朗先生をはじめとする弟子世代の先生方(ほとんどここ数年で故人になられた)のご指南によって、私達も華光に流れる伊藤先生の精神を受け継がせてもらっているといえるのです。

 各分級座談会もなかなか充実していたようで、大会終了後も、数名の方から、心境の変化なり、喜びのお電話をいただきました。確実に、法水によって、澱んでいた水が、流れだしたことを実感。

 蓮如上人のお言葉ではありませんが、人数が多く集まっても、信心沙汰があり、お念仏の声が轟き、そしてご法を喜ぶ人が出なければ、仏法の繁昌とはいえないとするならば、今回は、大いにお念仏が繁昌した華光大会でした。

 法話のこと、総会のこと、その後の味わいなど、いろいろと感じましたが、いまは、「ありがとうごさいました。南無阿弥陀仏」と、御礼を申しあげるだけです。

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