西方寺と清澤満之師~三河聖跡巡拝⑹~
聞法旅行をお願いしている旅行社は東の系統で、添乗員も大谷大学出身。ということもあってか、清澤満之師ゆかりのお寺を勧めてくださった。拝観時間も2時間と力の入った計画である。
清澤師は、名古屋市の出身だが、東京帝国大学卒業後、25歳で京都府尋常中学校長となったが、その年、この大浜の西方寺の養子に入り、わずか39歳での終焉をこの寺で迎えるのである。ちなみに、今年は生誕150年とあって、各地でさまざまイベントが開催れているようだ。
清澤師は、華光同人には馴染みが薄いだろうがし、ぼく自身もそれほど詳しくはない。しかし、近代の浄土真宗の巨星であることは間違いないし、東と西ではその位置が異なっているとはいえ、その影響の大きさも絶大だ。伊藤康善師の『安心調べ』でも、その冒頭を飾っているし、人によっては揶揄的な表現も多いなかで、脱線することもなく高く評価されている。ちなみに2番目には取り上げられるのが、三羽烏のひとり佐々木月樵師、三河の上宮寺の出身だ。
さて、師の三十三回忌に建立された記念碑の「信ずるは力なり」の碑文に迎えられて、本堂へ。偈文のお勤めのあと、ご和讃、ご文章と続くのだか、ここでは通常の聖典ではない。和讃がすべて清澤満之先生を讃仰するもので、清澤満之先生こそが親鸞聖人の生まれがわりだとか、先生の出生なくばこのまことの教えには会えなかたっというものが、ずらっと並んでいる。もちろん、善知識を仰ぐことは尊いことだし、弟子が讃えることは当たり前だが、これを親鸞聖人の和讃に代わって仏前の勤行するにはさすがに抵抗があった。親鸞聖人のご和讃でさえ、聖人ではなく、弥陀や釈尊、七
高僧の讃仰なのだ。また、ご文章のかわりに、「我が信念」の拝読。でも、郷に入れば郷に従えで、勤行はさせてもらった。その後、お東の先生方の何人かに尋ねてみたが、さすがに勤行は一般ではないらしい。それは当然だけど。
さて、質素なお墓(上の写真)に参拝したあと、庫裏の和室の間へ。二階にある四畳足らずの執筆の間(左写真)、終焉の場となった二帖の間(右下の写真)などを拝見した。また資料館では、記録や紹介映像を見せていただいた。
でも、ここでの説明でいちばん有り難かったのは、清澤師の『我が信念』が、愛する母上への信仰上の疑問に対する応答だということだった。しかも、その母上が、単なる有りがた屋ではなく、「薄紙一重がわからぬ」と、最後の真宗安心の関門に苦悩し、道を求め続けたことに対して、その応えを求めるために清澤師自身が求道に精進をすることとなり、その応答
が、『我が信念』だったというのである。
長い聖跡巡拝、聞法旅行の歴史の中でも、拝観した寺院の説明で、真宗の安心の最難関である薄紙一重に触れられたお話は、始めかもしれない。ただし、華光で語られるような、信疑廃立の一念の他力廻向信で翻る世界までの鋭さはなかったが、それでも、最後の関門に苦悩する、母への遺された形見としての書かれた生きた信心の書であるという話が聞けただけでも再発見であった。
資料館にあった満之師の写真。誰かが「お東のK先生に似ておられますね」と言っておられた。これは胸像ですが、うーん、どうでしょうか。そう言われればなんとなくですが、、ね。
ちなみに、左の書は、正信偈冒頭の揮毫。複製ですが、けっこうなお値段で売られておりました。南無阿弥陀仏
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