11月の輪読法座~それでまだ不足か
11月の輪読法座。平日だったが、ちょっと変わった顔ぶれもいて、やや多め。
「聖教のこころ」を読む。『阿弥陀経』の六方段である。
本文の最後に、
疑心の私めがけて、全宇宙の諸仏方が総動員で証誠し、命懸けでお勧めされる
と書いた。
では、なぜ、諸仏方が、総動員で、しかも命懸けで、お念仏をお勧め下さるのか。そのお心、お味わいを皆さんに尋ねてみた。
ところが、皆さんには、仏様が命懸けで働いてくださるのは当たり前のことのようで、質問が、逆に突拍子だったようだ。だから、私の側の理由、つまり真実心も、清浄心のかけらもまったない(機無)で、雨霰のように地獄におちていく姿が哀れだと見抜かれたからとか、極難信だからとか、まったく聞く心のない私めがけたお働きだとか、要は、私の側の迷いの問題点を挙げておられた。
確かにそのとおりではある。 この私が聞かせていただくためには、諸仏が総動員してくださる必要があったのである。
しかし、こちら側の理由だけなら、なにも諸仏の証誠がなくても、阿弥陀様の救済だけで充分になってくる。
諸仏の証誠の根源はどこにあるのか。諸仏方をして、阿弥陀様のご本願を、真実・まことだぞと「証誠」し、そのお念仏の教えをお勧めくださるのは、実は、その背後にこそ、阿弥陀様が立ち上がられたお心があるのだ。
阿弥陀様は、一切の生きとし生きるもの(一切衆生)を救ってやりたいという大願を建てられたのだが、それを諸仏(代表が世自在王仏)の前で、「もしそれがかなわないのなら、私も仏にはなりません」と誓ってくださっているである。つまり、単なる願いではなく、希有なる誓いに裏打ちされたのが、弥陀の願いなのである。
しかも、その一切の生きとし生きるものを救いたいという第十八願に先立って、そのお救いの手立てとして、第十七願を誓われて、諸仏方にわが名を褒め讃えられることがないのならば、また再び仏にはならないという願いを建てられているのである。名声聞(超)十方で、お念仏が超えすぐれることでお救いを実現させると、誓ってくださったのである。
必死に、善を勧め、悪を戒めておられた諸仏方ではあったが、極重悪人のこの私を救うだけの手立てはもっておられなかった。だから、その諸仏の師匠である本師本仏である阿弥陀様お一人だけが、この私を見捨てずに、自らがその仏の座をおりて、法蔵比丘となり、諸仏方に頭をさげ、このような超世、希有なる大誓願を、わざわざ諸仏の前でお誓いくださったのである。
諸仏方にすれば、自らのふがいないさと同時に、お師匠様、直々の命がけのお働きを、諸仏方も巻き込んで展開されてるのだから、もうグーの音もでず、ただひたすら、ご自身も、命懸けで、「弥陀の本願こそまことだぞ。極重悪人のお前が救われる道は、この念仏の教え以外にはない。どうか、このお念仏の教えを信じておくれ」と、東南西北下上の六方、つまり全宇宙の諸仏方が、こぞって、三千大千世界を覆うほどの舌を出だして、命懸けで、私に叫ばずにはおれないのである。
その故に、この私にも、「南無阿弥陀仏」の大悲の呼び声が届くのである。
それでも、まだ不足なのか!
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