振り返るご縁~寺院の報恩講にて~
宿泊の東京法座を終えて、翌日からは、泉佐野の寺院布教にでる。
今回は、改めて、自分の進む道に気付かせていただいた気がするご法縁となった。
説法や法話は、あくまでもお聖教を通じて法義をお取り次ぎし、仏徳讃嘆するもので、けっして自身の信仰告白を交えるものではないと言われている。そこに、聖教の量りとしての法話の意味はあるのだろう。
そのことを理解した上で、最近、強く疑問に感じていることがある。
果たして、この身を通して聞かせていただいたこと、つまり私を抜いて、何が伝わるというのだろうか。
もちろん、教義的な押さえも大切だとし、また出拠に基づいた巧みな譬えも意味がある。聴衆への気配りや話術に気を配る必要があろう。しかし、いくら形式を整えて、ご讃題をあげ、また出拠をしっかりしたとしても、それを取捨し選び、またどこかを強調したりするのは、結局は、伝える私というフィルターを通してである。しかし、そこを隠して、あたかもすべてお聖教や教義のみにのっといるかのように淡々と話したからといって、それは所詮、教えの上澄みだけをすくい、形式を整え、普遍性をもたせているように見せ掛けているのではないだろうか。
もしかすると、私は、浄土真宗の内部(身内)の目を気にして、自分の身に届いた喜びを伝えるとこを躊躇していてはいないか。身に届いた喜びがあるのなら、その身になったプロセスもあるはずである。そのことを一人一人が、しっかりと喜び、讃嘆しあえないのが、現代における真宗の念仏者の問題点だと思えてならないのである。
その意味では、本派の寺院布教ではあったが、まず私自身が自分自身を開いて、この真宗念仏をどう喜んでいるのか。そして、私がその本願念仏に出会ったご因縁を聞いていただいた。特に、自力心を捨てて、他力に帰した廻心の体験のところもさることながら、それ以前においての数々のご教化、ご縁をいただいていることを振り返らせさてもらうご縁をいただい。自分自身で気付かせていただいたこもとあったが、あくまでも、私自身の個別の問題ではある。しかし、もしこの話を聞いて一緒にお念仏くださる方があるならば有り難いことだし、またその本願念仏に出会っていこうと仏道を歩まれる機縁となるならば、それもまた尊いことである。
2日間のご法縁の、最後にそこをお話してもらったが、不思議にもいちばん皆さんから反応が強くあり、ご住職や坊守様からご自身の信心のところを語ってくださったのも、うれしかった。
前日は曇り空だたっが、今日は青空である。いつも少し物足りなさを感じる帰路となることもあるが、今日は充実感をもって車のハンドルを握っていた。
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