後の寺院布教の都合で、土・日曜日の予定を、金・土曜日に変更してもらった東京支部法座。まだ現役で働いている人が多いだけに、平日の午後からのお参りを心配していたが、有給をとる人、仕事を終わって夜から参加する人、無理をせずに土曜だけ参加する人と、それなりにお参りがあってよかった。
初日は、じっくりと『法蔵菩薩のご修行』~妙好人善太郎さんのことばを味わ~の輪読、翌朝は、仏青大会で刺激を受けたこともあって、急遽、「ミニ・カウンセリング」の実践・実習、そして、2日目午後は、通常のご法話と、その後は分級座談というライナップ。それぞれに味わうことがあったが、特に、参加者から質問がでた「唯除」のお心が印象的。
もし私ひとりが唯除されたとしたらどうか。たとえば、この世のなかでも、ここにいる仲間から、たったひとり私だけが除け者にされただけでも、ウアァーと泣くか、怒って攻撃するか、この場を逃げ出すか、心が頑になって、精神的におかしくなるかもしれない。それが、後生のお救いで、私ひとりが「本願から漏れた」と聞いたならどうなるのだろ.うか。
今日の真宗では、阿弥陀如来の大悲のお心、本願の力強さ、絶対他力のお救いを強調するばかりで、機は問題にせずとも、法の手強さを聞くことが聞法というお説教も多い。それで、第18願の「唯除」も、どこかで「極重の悪人こそが本願の正機、お目当て」なのであって、わざわざ罪を作らさないために方便で、仮に除かれたという大悲のお心の表れだと聞いておられる方も多いし、聞法をしている自分は、けっして謗法罪ではないといただいている方が大半ではなかろうか。
しかし、ほんとうにそれだけでいいのか。曇鸞さまも、善導さまも、そして親鸞聖人もの、この「唯除」のこころで、本願に向き合い、自ら問い、その疑問に応えておられるのである。
つまり、『観経』の下々品では、「十悪・五逆」の者も、臨終の善知識の転教口称で救われるが、
しかし、『大経』の第18願文では、「五逆・謗法」の者は、お救いから除くと示され、
それに対して『涅槃経』では、「五逆・謗法・一闡提」を難治の機であるが、如来のみが救うことができると示されているである。
それで、親鸞様も、自らの救いの問題として、徹底的にここを問い、他力廻向で救われていく物柄を明らかにしてくださったのである。
そして、善導さまのお言葉、「謗法・闡提、廻心すればみな往く」という本願の世界があることを示してくださったのである。広大な他力本願の世界だからこそ、「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」の味も出てくるのである。
しかしである。
「謗法・闡提、みな往く」ではない。
「廻心すればみな往く」ということを聞かねばならない。
ならば、廻心するとはどういうことかと、真剣に聞法する人ならば、絶対に疑問が起ってくるはずである。もし、「唯除」やこの文にひっかからないような聞法は、毒にも薬にもならない人ごとのおとぎ話を聞いているのだ。
それは結局、絶対に救われない自分、本願に逆らい、謗り続けてきた宇宙の大孤児である自分に出会うことでしかない。つまりは、唯除を、はじめから「五逆・謗法」がお目当てと自分に都合よく聞くのではなく、私こそがほんとうに除かれている、これは「実除」だという世界に飛び出さないかぎり、大悲のお心に出会えないのである。ここは、どんなにお聖教の正解を覚えたとしても、まったく味がないところだ。格好だけの落ちるや、最後は救われる保険つきの地獄一定はないのだ。
私こそが除かれている。私は絶対に救われない。ただ震えるほどに、恐ろしい救われない自分に涙するだけなのである。
善太郎さんの言葉に、「世界の人はみな、極楽に行かれても、この善太郎は地獄よりほかに行くさきはない」と断言された、ここである。
皆さんの聞法はどうであろうか。南無阿弥陀仏