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2013年10月の21件の記事

本證寺~三河聖跡巡拝(5)~

Img_7248_2   野寺御本坊と称され、三河三ケ寺の筆頭といわれる由緒あるお寺。もともと、鎌倉期に親鸞聖人の門弟が開基だと伝えられている。

 蓮如上人の時代に権勢を誇り、その後、権力基盤を強めていく家康とぶつかるようになる。そしImg_7252て、1563年に起きた三河一向一揆では、本證寺の空誓(蓮如の孫。前住が、加賀一向一揆で壮烈な戦死〈真宗僧侶、住職ですが〉を悼み、時の顕如上人が自らの猶子を送り込む)が、門徒に激をとばして、一揆の中心となっていった。一向一揆だが、一向宗の門徒ばかりでなく、多くの国人や土豪、中には家康配下のものも一揆側に終結したので、兵力では、松平(家康)軍をImg_7249上回って、一時は有利な時もあったが、結局、和議となった。ところが、和議の文面をたてに、家康は一向宗を禁止し、寺を焼き払ってしまう。だから、いまだに、お寺の説明では、家康を、約束を反故にした「狸親爺」と揶揄されていたのである。

  その後、許されて、今度は家康側の防衛拠点として再建されることになるで現在も、境内を取り囲むようにImg_7247重の堀が巡らされた城郭伽藍として、防衛面の機能を色濃く残しているのがわかる。
 屋根には鯱(?)のようなものがあり、寺院というより、城郭の天守閣を真似たような建物だと思っていたら、、実は、その逆。このような形式が基になって、お城の天守閣が誕生したという説明が、添乗のNさんからあった。なるほど。

Img_7251_2  格式ある寺院だけに宝物も伝わるが、拝観の日にちが決まっていて、今回は残念。

 三河御旧跡を訪ねる上では外すことのできない場所なので、30年前にも訪れている。ところが、その時の印象は何一つない。記録はあるが、訪れた記憶がないのだ。今回の旅行の中でも、いちばん印象が薄いのかも。申し訳ないが、なんとなくそれも分かるような…。立派な構えがあっても、やっぱり、いまにどうお念仏が生きてるのかのお話が、大事ですからね。

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福山城

Img_7420  広島法座が終わって、福山駅から新幹線に乗る。

   いつもの広島駅と違って、のぞみは、だいたい1時間に1本のペースでしか止まらない。

  待ち時間で、駅前にある福山城を覗く。3年前は、駅から概観を眺めただけだが、今日は、城公園をImg_7419巡ってみた。残念ながら、閉館時間で、城の中には入れなかったが、時間もそれほどなかった。

 特に城好きというわけではないと思うのだが、このブログでも、姫路城、岡山城、熊本城、犬山城、そして竹田城跡に、二条城と、けっこう城の話題が多いようだ。ブログ以前にも、彦根城、松本城にImg_7428行ったことがあるので、国宝天守閣の四城を巡っている。ほかにも、和歌山城、大阪城、長浜城、伏見桃山城などの思い出があるが、もっとまだまたあることだろう。

 福山城は、いつImg_7433も新幹線の中から眺めているだけだが、今日は公園の中を少し歩けた。それでも、結局、外からカメラを向けるただけの駆け足で終わった。

 ちょうど新幹線は、さくら号だった。新大阪止まりなので、いつもは利用しない。初めての乗車となったが、昔のレールスターのように普通車でも4列でゆったりしているし、木目調の車内も悪くなかった。

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広島支部法座in福山

 一昨年の法供養から始まった福山での家庭法座も、3年目。

  寺院布教と同じよう、自分を歩みを振り返るご縁をいただいた。

 ぼくのところでは、やまは二つある。小学校5年生の時と、大学1年の冬、19歳で得度を終えた時だ。

 もちろん、その間も、いやその前も後も、ズーッと仏縁をいただいているのである。

 その中でも、特に、父の日常の何気ないところで称える「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の念仏の声が、ぼくに突き刺さっていた。

 時に違和感を起こさせ、時に逃げ出したい気持ちさせ、時に私自身の不審を呼び起こさせるものであった。けっして、何かを指摘したり、叱ったり、激励するわけではない。ただ、静かな、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の声それだけである。しかも、それは 何気ない場面、寝るときであり、テレビを観ているときであり、または食事のときであるのだが、その日常の何気ない場面に、常に弥陀の呼び声は響いていたのである。ますます私自身の虚仮が暴かされいく。いわば、その念仏の声に追い詰められていくのであった。

  釈迦・弥陀とは慈悲の父母(ぶも)
  種々に善巧方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまひけり

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10月の輪読法座

 10月の華光誌輪読法座。

  巻頭言、「正しい信とは」の輪読。正信偈の構造なので、補足解説を丁寧に加えて、皆さんと分かち合い。いつもなら、続いて「聖教のこころ」を輪読するが、今日は、わが身の心境に疑問を話された方があったので、輪読は早めに切り上げ、そこに焦点を合わせた座談・示談形式となった。

 それにしても、凡夫の私は轉倒(てんどう)している。
 頼りにならないものを頼りに、ほんとうは頼りになるものを信じないのであるから。

 わが心、わが身は、ほんとうは無常で、虚仮で、無我であって「我」などないはずなのに、その頼りにならない「我」を頼りにし、そのわが心やわが身を根拠に、ほんらいは、常楽であり、真実であり、真我である「如来」様を計らい、信じようとしているのである。それでは、どれだけ「信じた」と堅く言ってみたところで、その「我」レベルならで、絶対に安心はできない。

 そうは分かっているつもりだ。だら、私ではなく、如来様をたよりにしようとするのだが、どうしも、私のところに届いてきた如来様の「有り難い」やら「尊い」やらの想いを頼りに、信じているとか、ダメだとか一喜一憂してしまうのである。

 親鸞さまは、その自力をひるがえして、捨てよと仰っている。

 自力のこころを捨てるとは、
自らが身を善しとおもうこころを捨て
身をたのまず
悪しきこころをかえりみずに
ただひとすじに
具縛の凡愚、屠沽の下類と信知し
不可思議の本願、広大智慧の名号を、ふたごごろなく信楽するならば、
摂取不捨の光におさめられる
のであるのだ。

 でも、どこまでも、わが身を善しとおもい、身をたのみ、わが身の至らなさをおれこれ思っていく。そのこころは、どこまでも虚仮不実なのだ。ただひとつ、「頼んでくれよ」「まかせてくれよ」の先手の本願を聴くのである。

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『地獄でなぜ悪い』

 『地獄でなぜ悪い』

 けっして、開き直った求道者の捨てぜりふではありません。

 園子温監督のコメディー娯楽作のタイトル。

  地獄とつく映画は、けっこうある。タイトルが面白いだけでは観ないだろうが、監督が園子温となれば見ないわけにはいかない。

  最近の彼の作品は、欠かさずに観ている。カルト宗教教団を材料にもした長尺の『愛のむきだしや、猟奇的連続殺人をモチーフにした『冷たい熱帯魚』(でんでんの死体をバラバラにするシーンが、なんともユニークですごかったし、彼の作品でいちばんよかった)、OL殺人事件(事実は国際的な冤罪事件になった)を元ネタに、人間の裏・表を暴く『恋の罪』など、人によっては嫌悪感をもつようなアナーキーで、エロ・グロ(出演する女性がみんなエロい。結局、監督と結婚した人もあるが)な映像作品の印象が強い。
 または、覚悟をもって東日本大震災の被災地で撮影たれた『ヒミズや、制御不能となった原発事故を通じて日本の今を皮肉った『希望の国』などの問題作も送り出している。
 一方、『ちゃんと伝える』http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-31a9.htmlのような静かな佳作もあるが、 賛否両論、話題性のある作品が多くて、一筋縄ではいかない魅力的な監督だ。

 でも、これは、痛快なコメディーで、ある意味で期待が外れる。でも、ヤクザって、けっこう笑いにしやすいのかもしれない。ひょんなことから、映画を製作をすくことになった暴力団と、長年の映画オタクが出会い、敵対する組との出入りを、35ミリのキャメラに收めることになるというもの。後半は、派手なアクション(斬りあい)シーンが続く。だから、やたら血は流れ、首は飛び、刀や弾が飛び交うのだが、そこにまったくシリアスはなく、わざとチープな作り物感がでているからだ。これは明らかに、日本の任侠映画や、プルース・リーのオマージュが散りばめられ、同時に、フィルム映画や青臭い自主映画への愛情が感じられる作品だ。そして、誰も居なくなるのか?

 このところ、ぼくは、映画館で居眠りをすることが多い。疲れてるのか、シートが安らぎの場かはしならいが、かなりの外国の佳作でも退屈なシーンがあるからだが、これはレイトショーたったにもかかわらず、まったく眠たくはなることはなかった。まあ、それでもお勧めというわけではないけれど、楽しめた1本。やっぱり血や銃撃場面は生理的に苦手な方もあるだろうし…。

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応仁寺と絵解き説法~三河聖跡巡拝(4)~

Img_7235 2日目は、油ケ渕の応仁寺から始まった。

 このお寺の在り方は、たいへんユニークというか、尊いものだ。もちろん浄土真宗なのだが、東西どちらにも属さない単立法人である。寺号が示すとおり、応仁の乱で有名な応仁2年に誕生している。この油ケ渕は、上宮寺の如光生誕に関わる伝説があImg_7214る地だが、彼が蓮如上人のために、ここに道場を建て、蓮師の三河布教が進められた。数ケ月のご教化の後、京都に戻られる蓮如上人は、村人と別れを惜しみ、また縁があればこの地に戻ると言われ手、自身の自画尊像を与えられたという。「写真もどうぞ」といっていただいたが、残念ながら黒ずんでよくわかならいが、実際は、もう少しハッキリしていた。

Img_7234 それ以降、ここは蓮如様がのお寺。蓮如上人が帰ってこられるのを待つために、代々住職をおかずに、地域のお寺が輪番制で勤め、また檀家たちが世話人となって運営されているのという。500年以上も、蓮如上人のお留守を守って、地域の人達の手で受け継がれてきているのである。

 もちろん無住であるがゆえに災難Img_0583_2にも遭遇されている。昭和62年に法宝物が盗難。その一部が、平成20年に業者に手あることが分かったものの、既に時効。やっと買取額と同額で買い戻されることになったが、その資金をどう工面するのか。檀家さんたちは、相談の結果、分割で買い取りを決意されたというお話だった。この決断Img_7227もたんへんだったと思うが、蓮如上人への想い、その誇りというようなもが変わっていないのが尊かった。左の写真の蓮如上人の名号本尊もそのひとつ。もちろん、写真版ですが。

  今回、応仁寺を訪れたのは、蓮如上人のゆかりのお寺で、琵琶演奏を交えた絵解き説法を聞かせていただいくためである。蓮如上人のご生涯の一部を、特に琵琶を交え、絵伝の絵解きをしながら、朗々と語られていかれた。正直、企画の段階では、それほどの期待はなく、ちょっと珍しいものが見える程度の想いであったが、、朗々とした声で語られるお聖教の言葉は、胸に迫るものがあって、有り難かった。

 文字も知らない庶民に、み教えが伝播するには、節談や絵解きなどのImg_7216果たした役割は大きかったのであろう。また日本の話芸や芸能のルーツとなって発展するのであるが、「受け」を狙って本来の法義から逸脱したり、より洗練された話芸として独立して、近代には衰退を余儀なくされていくようだ。それが、最近、脚光を浴びたり、若手の僧侶によって復興されている。今日の説教師さんもそのおひとりで、、学生時代から独学で学び、試行錯誤の後、この三河の地でも旗揚げをして活発に活動されているという。たまたま添乗員のNさんとは大谷大学時代の先輩後輩にあたるとのことで、今回のご縁Img_7230をいただいた。

朗々とした節談の声だけでなく、もうひとつは「絵伝」という視覚にも訴えることにも、大きな意味があったのだろう。毎年、報恩講にお出しする「親鸞聖人御絵伝」も、なにか報恩講さまのお飾りのように思っていたけれど、これにも「御伝鈔」と合わせて意味があるのだから、一度、ゆっくりと見直してみたいなと思われた。

 最後の写真、境内におまつりされていた兆載永劫のご修行像。

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退院

 ぼくが聞法旅行から帰って来た翌日から、入院していた父が、4週間ぶりに退院してきた。ほんとうは、先週の木曜日でもよかったが、4日間布教が続くので、しばらく病院に置いてもらうことにした。

 具合の悪かったところは完全に治り、本人は、痛いところも苦しいところもないらしい。ただ何分、高齢での1ケ月近くの入院生活で、かなり弱ってきているところあるのようだ。でも、表情をみるかぎり、慈愛のまなざしと、穏やかで、柔和な顔になっておられる。もう「心は浄土に遊ぶなり」の心境なのであろうか。

 回りは入院生活中は生活中で、それなりにたいへんであったが、さて、退院したらしたで、主に介護する母には負担も増えるであろうが、とにかく元気に戻ってくることができて、まずは一安心である。

 ご心配いただいた皆様方に、深くお礼申し上げます。

 華光大会では、皆様に元気な父の顔を見せられたらることを願っております。

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振り返るご縁~寺院の報恩講にて~

Img_7412 宿泊の東京法座を終えて、翌日からは、泉佐野の寺院布教にでる。

 今回は、改めて、自分の進む道に気付かせていただいた気がするご法縁となった。

 説法や法話は、あくまでもお聖教を通じImg_7416て法義をお取り次ぎし、仏徳讃嘆するもので、けっして自身の信仰告白を交えるものではないと言われている。そこに、聖教の量りとしての法話の意味はあるのだろう。

 そのことを理解した上で、最近、強く疑問に感じていることがある。

 果たして、この身を通して聞かせていただいたこと、つまり私を抜いて、何が伝わるというのだろうか。
 もちろん、教義的な押さえも大切だとし、また出拠に基づいた巧みな譬えも意味がある。聴衆への気配りや話術に気を配る必要があろう。しかし、いくら形式を整えて、ご讃題をあげ、また出拠をしっかりしたとしても、それを取捨し選び、またどこかを強調したりするのは、結局は、伝える私というフィルターを通してである。しかし、そこを隠して、あたかもすべてお聖教や教義のみにのっといるかのように淡々と話したからといって、それは所詮、教えの上澄みだけをすくい、形式を整え、普遍性をもたせているように見せ掛けているのではないだろうか。

 もしかすると、私は、浄土真宗の内部(身内)の目を気にして、自分の身に届いた喜びを伝えるとこを躊躇していてはいないか。身に届いた喜びがあるのなら、その身になったプロセスもあるはずである。そのことを一人一人が、しっかりと喜び、讃嘆しあえないのが、現代における真宗の念仏者の問題点だと思えてならないのである。

 その意味では、本派の寺院布教ではあったが、まず私自身が自分自身を開いて、この真宗念仏をどう喜んでいるのか。そして、私がその本願念仏に出会ったご因縁を聞いていただいた。特に、自力心を捨てて、他力に帰した廻心の体験のところもさることながら、それ以前においての数々のご教化、ご縁をいただいていることを振り返らせさてもらうご縁をいただい。自分自身で気付かせていただいたこもとあったが、あくまでも、私自身の個別の問題ではある。しかし、もしこの話を聞いて一緒にお念仏くださる方があるならば有り難いことだし、またその本願念仏に出会っていこうと仏道を歩まれる機縁となるならば、それもまた尊いことである。

 2日間のご法縁の、最後にそこをお話してもらったが、不思議にもいちばん皆さんから反応が強くあり、ご住職や坊守様からご自身の信心のところを語ってくださったのも、うれしかった。

 前日は曇り空だたっが、今日は青空である。いつも少し物足りなさを感じる帰路となることもあるが、今日は充実感をもって車のハンドルを握っていた。

 

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東京支部法座~唯除は実除だ~

 後の寺院布教の都合で、土・日曜日の予定を、金・土曜日に変更してもらった東京支部法座。まだ現役で働いている人が多いだけに、平日の午後からのお参りを心配していたが、有給をとる人、仕事を終わって夜から参加する人、無理をせずに土曜だけ参加する人と、それなりにお参りがあってよかった。

 初日は、じっくりと『法蔵菩薩のご修行』~妙好人善太郎さんのことばを味わ~の輪読、翌朝は、仏青大会で刺激を受けたこともあって、急遽、「ミニ・カウンセリング」の実践・実習、そして、2日目午後は、通常のご法話と、その後は分級座談というライナップ。それぞれに味わうことがあったが、特に、参加者から質問がでた「唯除」のお心が印象的。

  もし私ひとりが唯除されたとしたらどうか。たとえば、この世のなかでも、ここにいる仲間から、たったひとり私だけが除け者にされただけでも、ウアァーと泣くか、怒って攻撃するか、この場を逃げ出すか、心が頑になって、精神的におかしくなるかもしれない。それが、後生のお救いで、私ひとりが「本願から漏れた」と聞いたならどうなるのだろ.うか。
  今日の真宗では、阿弥陀如来の大悲のお心、本願の力強さ、絶対他力のお救いを強調するばかりで、機は問題にせずとも、法の手強さを聞くことが聞法というお説教も多い。それで、第18願の「唯除」も、どこかで「極重の悪人こそが本願の正機、お目当て」なのであって、わざわざ罪を作らさないために方便で、仮に除かれたという大悲のお心の表れだと聞いておられる方も多いし、聞法をしている自分は、けっして謗法罪ではないといただいている方が大半ではなかろうか。

 しかし、ほんとうにそれだけでいいのか。曇鸞さまも、善導さまも、そして親鸞聖人もの、この「唯除」のこころで、本願に向き合い、自ら問い、その疑問に応えておられるのである。

 つまり、『観経』の下々品では、「十悪・五逆」の者も、臨終の善知識の転教口称で救われるが、
 しかし、『大経』の第18願文では、「五逆・謗法」の者は、お救いから除くと示され、
 それに対して『涅槃経』では、「五逆・謗法・一闡提」を難治の機であるが、如来のみが救うことができると示されているである。
 それで、親鸞様も、自らの救いの問題として、徹底的にここを問い、他力廻向で救われていく物柄を明らかにしてくださったのである。

 そして、善導さまのお言葉、「謗法・闡提、廻心すればみな往く」という本願の世界があることを示してくださったのである。広大な他力本願の世界だからこそ、「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」の味も出てくるのである。

 しかしである。
 「謗法・闡提、みな往く」ではない。
 「廻心すればみな往く」ということを聞かねばならない。

 ならば、廻心するとはどういうことかと、真剣に聞法する人ならば、絶対に疑問が起ってくるはずである。もし、「唯除」やこの文にひっかからないような聞法は、毒にも薬にもならない人ごとのおとぎ話を聞いているのだ。

 それは結局、絶対に救われない自分、本願に逆らい、謗り続けてきた宇宙の大孤児である自分に出会うことでしかない。つまりは、唯除を、はじめから「五逆・謗法」がお目当てと自分に都合よく聞くのではなく、私こそがほんとうに除かれている、これは「実除」だという世界に飛び出さないかぎり、大悲のお心に出会えないのである。ここは、どんなにお聖教の正解を覚えたとしても、まったく味がないところだ。格好だけの落ちるや、最後は救われる保険つきの地獄一定はないのだ。
 私こそが除かれている。私は絶対に救われない。ただ震えるほどに、恐ろしい救われない自分に涙するだけなのである。

 善太郎さんの言葉に、「世界の人はみな、極楽に行かれても、この善太郎は地獄よりほかに行くさきはない」と断言された、ここである。

 皆さんの聞法はどうであろうか。南無阿弥陀仏

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YEBISU

 母は、毎日、入院中の父の許に介護に向かっている。ぼくも、地方への出張法座がない限り、母を送りか向かえをして、欠かさず病室に顔をだすようしている。

 それにしても、病院の雰囲気は変わってきた。患者さんが「患者様」になった。昔は、暗くて、古くさくて、夜になるとかなり恐ろしい場所だったが、いまは、清潔で、明るい雰囲気を作り出している。この病院の中にも、コンビニに、ドトール、こ洒落たレストランまで完備されている。しかし、やっぱり病院は病院だ。いるだけでも、疲れてくる。病や老の気が充満しているのだろうか。けっして長居をする場所ではないようだ。

Img_7408 というわけで、お見舞いの方と、病院内のカフェではなく、向かい側にあるYEBISUという、カフェ・バーに入った。入院を機会に、初めて入ったお店だが、フロアーの店員さんとは顔見知り。ぼくが、よく通っていたマノアマノというカフェが6月で閉店になった時に、このお店で働くと聞いていたのだ。Img_7377でも、だいたいの場所は分かっていたが、まさか病院の向かえにあるお店とは思っていなかったので、見つけた時はちょっとびっくりした。

同じ敷地の並びにあるスタバーは駐車もできるので、たまに利用していたが、ここは少し外れにあるので、まったく知らなかったのも、また不思議。

 おかげで、おいしいケーキと、オーガニックのコーヒーを飲むことができて、ちょっとホッと一息。

 一度、夜のBARタイムに利用したいお店。でも、車を抜きで、このあたりまで来ることはないのが、ちょっと残念だけど。

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グロリアと3人のセラピスト

  真カ研の月例会で、ブライアン・ソーン著の『カール・ロジャーズ』を輪読しているが、理論篇が終わり、臨床実践篇に入るに先立って、実際のロジャーズの面談ビデオを見ることにした。以前、研究会で、「ミス・マン」の面接ビデオを観たので、今回は有名な「グロリアと3人のセラピスト」の中から、ロジャーズ部分を選んだ。

 ビデオは、悩みを抱えるグロリアという30代のシングルマザーの女性に対して、3名の著名な流派の創始者たちが、それぞれの手法で面接する場面を納めたものだ。しかも、単なる記録映像というだけでなく、冒頭の映像などは映画仕立てのタイトルロールになっている。グロリアも、堂々としたなかなか魅力的な女性で、いきなり自分の性生活の悩みなどを吐露したり、感情を顕したりと、見る側の興味が持てる。解説やグロリア(クライエント)の振り返りも入っているので、見応えがある。何よりも、ビッグネーム3名の、なまの映像が並ぶだけでもすごい。

 1)「来談者中心療法」の、カール・ロジャーズ博士
 2)「ゲシュタルト療法」の、フレデリック・パールズ博士
 3)「論理療法」の、アバート・エリス博士

という、異なる独自のアプローチをするカウンセリングの創始者たちが、それぞれの手法で面接をするのだが、その特色がよくあられわている。彼女の最後のコメントにも、それぞれのアプローチの違いが顕著になっていて、面白い。

 それにしても、この顔ぶれはすごい! もし、日本仏教でいうならば、同時期に生きられた親鸞、日蓮、道元が、同じ求道者に御示談するようなものだななどと、意味のない譬えがよぎるほどの豪華なメンパー。それが同じクライエントに、初回のたった30分ほどの面接時間で、一発勝負のカメラの前に立つのだから、この自己を開いた態度だけでも、3人のすごさがわかる。

 真カ研のプログラムは、カウンセラーになるためのトレニング法である「ミニカン」的な傾聴が主力となっているため、これがロジャーズのカウンセリングそのものだと思っている参加者もおられるようで、このロジューズのアプローチは、ある意味で驚きだったようだ。

 ロジャーズに関しては、彼自身は、満足のいく面接だったようだし、その後、グロリアは、3名のうちロジャーズを選ぶことになる。ソーン氏も、ロジャーズのカウンセリングのエッセンス、特にカウンセラーの3条件が遺憾なく発揮されていてる面談だと高く評価している。しかし、あまりよくないという人もあって、評価の分かれる面接だ。
 一見すると、自己一致して、自己開示する場面が、逆転移だといわれる批判も分からなくはないほど、かなり微妙なやりとりだ。時間の制約か、高名な3名の勝負という力みがあるのか、かなり急ぎすぎの感もある。
 しかし、ここは、その場の当事者でなければ分からない、ふたりのだけの関係の深さもあるだろう。何よりも、一貫して、専門家といして権威を被らず、誠実で、透明であり、その時、その時の自分自身であることだけは確かで、ここが、逆に、逆転移といわれる言葉を呼んでいるようにも思えるので、この微妙な感じをどうとらえるかで、評価が分かれているのかもしれない。いずれにせよ、こんな面接ビデオがあること自体がすばらしい。

 ちなみに、ネットで調べると、逐語録付きで、3巻で「21万円也」!!という超高価な代物で、びっくり。現在では、入手困難のようだが、大むかしに、研究会で購入した代物で、ぼくたちは得をさせてもらった。
http://www.iryo.co.jp/teamiryo/PSY_VIDEO/PSY_V011.htm

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仏青大会

 今年の仏青大会。3日間の日程が短縮となり、参加者も多くはなかったが、高校生や大学生世代、20代までの参加者が大半で、ほんとうの意味での仏教「青年」会だったかもしれない。

 M会長が意欲的な企画を次々と行って、それに引っ張られる形で、みんなも運営やお手伝いで、積極的に参加しようという思いが伝わってきた。

 冒頭は、Yさんの他者紹介などのゲーム的なオリエンテーョンで始まり、M会長から、『子どもの聖典』を使った仏法入門セミナー。夜は、焦点が絞られた、密度のある信仰座談会となった。翌朝は、初めて『正信偈』の調声をされる方の勤行でスタートし、3人組での「ミニ・カウンセンリグ」実習。参加型の企画でもあり、10分間、しっかり自分のことを聞いてもらったり、聞いたりするという時間は、貴重でもあり、またパートナーとの親密感も増していくようで、たいへん好評だった。午後から、ぼくの法話で、「ほんとうの幸せ」とは何かを、さまざまな角度から考え、復習で『子どもの聖典』の念仏の救いを読み直してみたりした。

 とにかく盛り沢山のメニュー。これに、まだ夜座にも法話をたのまれていたが、せっかくのいい企画も、消化不足で流れるのももったいないので、夜座は、入門セミナーの分かち合いと、信仰座談会に変更してもらった。

 それに、遠方から、わざわざ実家に子供を預けて、参加していくれた方に関わりたかったのもある。本人の言葉は、いつも聞法から逃げているのに、ほんとうは、どんどん仏法に近づかざるえない現実を生きておられる。仏法が、生活に身近になっているのである。つまりは、こちらは逃げようとしても、逃がさぬ働き、願力には抗することもできずに、こうしてご縁を結んでくださったことがうれしかった。それならば、「聞きたくない心」にとらわれるよりも、ありのままをお聞かせに預かることが早道である。そんなことが、気持ちに寄り添いながら、お伝えできたのも小人数の集まりのメリットでもある。

 そうそう、夜の懇親会にまで、自主企画があって、ももクロ(たぶん)の曲にのって、ダンスのパフォーマンスがあったが、さすが若い人ならではで新鮮だった。でも、みんな未成年か、お酒を飲まない人ばかりで、呑んでいるのはぼくひとりとは、ちょっと寂しかったけど…。

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上宮寺~三河聖跡巡拝(3)~

Img_7189_2  妙源寺から10分足らずで、佐々木の上宮寺に到着した。

 柳堂の佇まいから一転、なんともモダンな本堂で、「まるで葬儀会館みたいだな」と、つぶやく人もあった。

 しかし、ここは、三河のみならImg_7195ず、浄土真宗にとっても、重要なお寺のひとつである。

 「上宮」とは、聖徳太子の住まいであった名から、「上宮皇」(じょうぐうおう)と呼ばれたことに由来するが、聖徳太子が開山されたという伝説までさかのぼる。正式な寺号は、「太子山 上宮寺」というのである。柳堂(太子堂)と同じく、この地では、聖徳太子信仰が盛んであったことは間違いない。

Img_7200 もともとは天台宗であったのが、親鸞聖人が柳堂滞在中に、浄土真宗に帰依。佐々木盛綱がその後を継いだりし、妙源寺と同様、三河高田系の中心寺院となって栄えるが、三十代の佐々木如光が、蓮如上人に帰依。如光は、大谷破却の時にも大活躍して、上人を支えた有力な側近として、かの地にもさまざまな伝説が残っていた。Img_7190_2

 三河三ケ寺のひとつで、100ヶ寺以上、1万とも3万人とも言われる門徒を束ねた本願寺系の有力寺院としてたいへんな勢力を保つが、三河統一をはかる、徳川(松平)家康と対峙。一向一揆の中心寺院のひとつとして戦うも、破れて、三河の本願寺系の寺院は、ことごとく破却、僧は追放となっるも、彼らは、Img_7198長島の一向一揆で、今度は信長と激しく戦い、破れるという壮絶な歴史のあとも残る。

 その後、許されて再建されるが、なんと昭和63年に大火災によって、本堂を中心に大部分が消失して、平成になってから再建されたのが、このモダンな本堂だ。なるほど、それで前回は、ここに参詣しなかったわけだ。

 いろいろな歴史的背景もさることながら、今回の収穫は、資料館に清澤門下の三羽烏のひとり、佐々木月樵師の展示があったことだ。廃仏毀釈が吹き荒れた明治期に、初代の清澤満之師、二代目南條文雄師に続く、大谷大学第3代目の学長として活躍された碩学のお寺であることを、まったく知らなかった。
 この一ケ寺の歴史をみるだけでも、黎明期から近代までの浄土真宗の歴史の一端を知ることができるのだ。

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妙源寺~三河聖跡巡拝(2)~

Img_7162_3 三河安城駅で、関東や東海組と合流して、西岡崎の妙源寺に参詣する。

 三河の旧跡巡拝は、30年ぶりだ。ぼくは、まだ大学生だった。かなり記憶は断片的だったが、太子堂Img_7168(柳堂)の上品な佇まいは、強く印象に残っている。その時も堂内に入れてもらったのかもしれないが、そのことは覚えていない。ほかに、「選択相状の御影」の複写図でご説明いただいたことも覚えている。

  ここのご子息は、学生時代に聞法の集いに参加してくれたこともImg_7176あり、大学院時代にも、共に学んだことのある仲になるのだが、それはもう少し後になってからのお話。

 妙源寺は、高田派の寺院である。三河では、真宗(本願寺)と徳川家康との激しい一向一揆が起Img_7184こる。しかし、純粋な信仰戦争という一面だけではない。同じ浄土真宗といっても、本願寺系と高田系との争いもあって、高田派は、家康側に与している。だから、苦戦した家康が、この妙源寺にも逃げ込んでいるのである。このことは、次の上宮寺などでも触れる。

Img_7177 親鸞聖人が、関東から京都への帰京の途上に、この地に17日間滞在されて、三河に真宗念仏の教えを弘通されている。その理由のひとつは、この地に、聖徳太子信仰があったのが、聖人が訪れた理由にあるようだ。Img_7169

 お彼岸とはいえ、残暑が厳しい1日。しかし、蔀戸(しとみど)を吊されて、開け放たれた、檜皮ぶきの寄棟造りのお堂を通る風は、なんとも心地よかった。

 25名ほどの華光同人で、聖徳太子をおまつりする堂内は、ほぼ一杯となった。ご住職より、「この板間に親鸞聖人も座られ、三河のImg_0562民衆と車座になって、お念仏を讃嘆されました」とのお話に、身震いする思いがした。

 太子堂は、柳堂とも呼ばれ、旧国宝(いまは国の重文)にも指定されている浄土真宗にとっては、Img_7181とても重要な建造物。昔の道場形式以前の形態なのだろう。

 当然、長年に渡り建物を維持、管理するご苦労も窺った。檜皮ぶきの葺き替えだけでも、5000万円の費用がかかったというのである。

 しかし、建物も貴重だか、それ以上に、ここで親鸞様が称えられたお念仏と寸分変わらないお念仏が、私の口をついて出てくださることこそが、何ものもに替え難い宝なのだと、さまざまな「十字名号」や「交名帳」(いつれも複製)のご説明をいただきながら、しみじみと味わわせていただいた。
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真夏日

 10月に入っても、夏用の「かき氷」のブログデザインが、まだ充分いけるようだ。

 連日30度を超える真夏日が続いてる。今日も、真夏日となった京都は、これで10月に5度目。1961年の3度を超える新記録だというが、ぼくがうまれる前のことで、覚えはない。

 今日も蒸し暑かった。季節は、確実に秋で、日がおちるのは、まさに釣瓶落としなのに、気温だけは、夏が続いてる。季節外れの暑さは、まもなく収まるようだが、しばらく高温の日が続きそうである。

  本来なら、冷房も暖房もいらない、いちばん快適な季節なのに、どこにいっても、まだ冷房がはいていて、体調管理が難しくて、どうもからだ妙な具合だ。

Img_7393 前日の台風接近の時も、妙な天気で、強く雨が降ったかと思ったら、好天になり、夕方からは、また曇天になったのに、西は真っ赤な夕焼けという具合。

 近所の電線に、大量のスズメが群がっていた。

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厳しい

 福岡から会計士のY先生が、奥様や担当の職員と来館されて、今年度の決算と、来年度の予算の相談。こんな貧乏所帯を見捨てず、お世話くださって、ほんうとに有り難い。これも、お念仏のおかげである。

 大遠忌を終わった翌年ということもあり、ある程度は予測はしていたが、すべての面で厳しい内容。この分だと、来年以降も、けっして楽観はできない状態だ。

 確かに、危機感は必要だ。しかし、うつむいていたり、後ろ振り返っていても何もうまれない。むしろ、落ち込んでいる時だからこそ、やりがいもある。今後は、変化すべき時代に入ってきたようだ。

 もちろん、変わらずに、なすべきことはハッキリしている以上、それを踏まえてどううちだしていくのか。しっかりと前向いて進んでいきたいものである。

Img_7381 お昼は、「ローのお店に行きます」というと、「朗さんのお店ですか」との返事。いえいえ会計事務所でも取り組んでおられるローフードやマクロのお店で、ランチ。

 酵素玄米を使ったベジ(ベジタリアン)の食事で、これが美味。食事後の、たんぽぽコーヒーやマクロのデザートもおいしかったけれど、次の予定が迫っていて、慌ただしかったのがちょっと残念。

 Y先生たちは、このまま名古屋に出張で、夜には、姉の店に顔を出してくださるようだ。お世話になりました。

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はしご

 高山のKさんが、京都での会合の関係で、華光会館に宿泊された。

 法座や行事抜きで、飲みいくことになった。京都タワーの下で待ち合わせて、七条通りの路地にある、じじばばという飲み屋へ。カウンターだけの狭い店は、いつも混雑しているが、今夜は誰も客がいない。土曜日は、案外こんな感じだというのだが、法座かあるので、週末に外に出かけてることはほとんどない。しばらくすると、お客が入ってきて、いつもどおりにぎやかになってきた。

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 じゃ、もう1軒は、静かなバーにいく。こちもら、客はぼくたちだけ。このあたりは、京都駅界隈とはいえ、駅から少し離れたところなので、サラリーマンの常連が多いのか、土曜日の夜は空いている。どちらも日曜日は休業日なので、ちょっと残念だけど。

 このところ、いろいろとあって、かなり疲れ気味。いつもより酔いが早かく、もう一軒行く気分にはなれなくて、はしごはできず。でも、気兼ねなく飲めて、気分転換になった。

 また明日からも頑張ろう。

 

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硯(すずり)

 シルクロードへの旅。父への土産は迷った。

 子供のころから、母とは違って、父へのプレゼントやお祝いは困ることが多かった。本人も、プレゼントを喜ばないたちで、自分が必要ないものは、「使わないので、あんた使い」と、返ってくることも、しばしばあった。正直といえば正直だけれど、贈った側の気持ちなどお構いなしである。それどころか、プレゼントをして、叱れた思い出まである。まだ小学生のころ、姉と二人で父の日にプレゼントした「のらくろ」の復刻版。子供たちが、戦前生まれの父が懐かしがるであろうと思ったのに、逆効果となった。これは、いまだにぼくの本棚にあって、見かけるたびに苦笑いになる一品。小さかったぼくは、なぜ叱られたのが分からず、いまだに悲しい思い出となっている。

Img_7382 クチャからウルムチの国内線から、関空の国際線へのトランジットで寄った上海に、硯があった。

 中国には、書道の達人の父向けに、文房四宝があるので、助かる。以前の中国旅行でも、父は、筆や墨、書や水墨画を買っていた。

 ところが、このごろは、教室で教える以外に、筆をもつことも少なくなってきたので、「あまり使うこともていから、あんた使ったらと」と、ぼくのところに戻ってきた。

 一度、受け取ってもらたものなので、喜んで使わせてもらうことにした。ぼくの書道道具は、ケースも硯も、小学校3年生に学校で購入したものを、いまでに使っている。硯は、真っ二つに割れたが、割れ方がよくて、透明テープでバッチリ復活している。だいたい物持ちがいいぼくのにしても、最長不倒のひとつである(この身、からだはのぞく)。

 というわで、いまだに古いタイプを使っているが、急遽、法名の依頼をうけた。ぼくと同学年の方である。ということで、心込めて、真新しい硯で、法名を書かせてもらうことにした。ご本人は、真宗ではなくて、禅や八聖道に関心をもっておられると聞いていたので、さとりへの道、又はさとりそのものを顕す「道」という文字を入れさせてもらった。我ながら、もう少しうまく書けいないかなと思うが、せいぜい慣れ親しんでいきたいものだなー。

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思い出

 先日、江原(現日高支部)同人で華光会の発展に寄与された故谷本政雄氏の年忌法要のを行った。33回忌は過ぎているし、50回忌はまだ先だ。なんでも、跡取りの方が、自分の元気をうちに、華光会館で50回忌をお勤めしておきたいというのである。

Img_7336 日高支部の方以外で、政雄氏をご存じの現役の華光同人もごく少数だろう。故北口光三氏と並んで700回忌大遠忌に尽力され、また、永代経法要や聖跡巡拝(現聞法旅行)を提案されたりと、悟朗先生を助けて、華光会の発展に寄与されたお方である。その第1回の聖跡巡拝(現聞法旅行)は、越後だった。既に目を悪くされていたが、息子さんの故瀧雄氏に手を引かれて、念願の祖師のご流罪の地を巡拝された。Img_7338

 氏をご存じなくても、会館でお手伝いをされた方なら、その名をご覧になった方もあるかしれない。華光会館の行事鐘の施主でもある。華光会へのご喜捨には、原則、施主のお名前が入っていない。唯一、明記されているのが、この行事鐘で、「施主、江原華光同人 谷本政雄」とある。発願主も、「初代華光会館館主、増井悟朗」と刻まれている。父は、よく「行事鐘を名前を入れたばかりに、法座のたびに、政雄さんと私は、叩かれ続けなければならない」と、笑い話にしていた。

 ぼくは、晩年の政雄氏しか知らない。それでも個性的な喜び手であり、ご示談にも長けていた氏のことは、強烈な印象がある。そのひとつが、ぼくがまだ小学生のころ、父と、政雄氏と一緒に、東山の大谷本廟に参拝した時のことだ。

Img_2567 廊下に飾られている親鸞聖人、越後ご流罪の一コマがブロンズ像になっている。突然、その聖人のみ足に額づいて、「ご開山さま、ご苦労をおかけいたしております!」と、号泣してお念仏されたのである。参拝の皆さんの奇異な視線が集まる。ぼくもびっくりしたが、案内役の若い僧侶も、苦笑いを浮かべ、困った表情をされていることを覚えている。

 昨年、法事で参拝した時、懐かしくて写真をとったが、それをここで披露することになるとはなー。

 確かに、大勢の参詣者が通るこの前で、号泣念仏されれば、案内役でなくても戸惑うのも無理はない。今日では、華光同人も、スマートというか、小ぶりになってしまった。氏のように豪快に念仏される方はもういない。我が身がそうだが、みんな、人の目を気にするだけだものなー。

  「ぼたもち」 谷本政雄作

 きいたというも 知ったというも
 たやすいことまで 自分のつごう
 たしにならぬは 自力心

 自力心では 後生はこせぬ
 わが身をせめて せめあげて
 手ばなしすれば おちてゆく

 たなのぼたもち わが身を知らされ
 おちたところが おやごころ
 あいた口が ふさがらぬ

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華光誌

 急なピンチヒッターでRちゃんの活躍で完成した、華光誌。

 今日も、地元の京都支部の3名の同人に加えて、Rちゃんも発送作業を手伝ってくれた。、遠方の方にも、週末にはお手許に届くことだろう。

 今号は、珍しくK先生の誌上法話、恒例の信仰体験記の他に、シルクロード旅行記がたっぷりと掲載されている。

 合わせて、年賀広告のお知らせが同封されている。まだまだ先のことだが、〆切は、11月20日で、どうぞ、皆さん、奮って、お申し込みください。

 9月末には、華光大会(総会)の案内や委任状も送付しているので、合わせてご確認ください。 

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スイカ

 夏休みに、大きなスイカを食べた話題に触れた。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-c6d6.html

 その時、下の子が、「このスイカをのタネを蒔いたら、スイカが出来る?」と聞いた。上の子が、「ムリや」と一蹴したのだが、「いや、植えてみる」と、植木鉢にタネを蒔いて、お世話を始めた。

Img_7139 それが、なんと9月を過ぎたころから、芽が出で、台風の大雨にもめげず、順調に育っていた。

 すぐに枯れると思われたのに、意外である。

 今日から10月に入ったが、14年ぶりに30度を超す真夏日で、暑い。それでも、さすがに朝晩は秋の気候。順調な生育も、残念なからここまでのようだ。

 蒔く時期が悪かったのだ。秋から冬に向かっていく時に蒔いても、無理なのである。

  「スイカのタネは、必ずスイカの芽がでる」とは、因果の道理の説明だ。しかし、縁が整わないと、一生懸命育てても、育たないのである。蒔くタイミング、一つを違えただけ、ダメなものはダメなのだ。

 子供にすれば、芽が出ただけでも、大喜びだったけど。

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