上宮寺~三河聖跡巡拝(3)~
柳堂の佇まいから一転、なんともモダンな本堂で、「まるで葬儀会館みたいだな」と、つぶやく人もあった。
しかし、ここは、三河のみならず、浄土真宗にとっても、重要なお寺のひとつである。
「上宮」とは、聖徳太子の住まいであった名から、「上宮皇」(じょうぐうおう)と呼ばれたことに由来するが、聖徳太子が開山されたという伝説までさかのぼる。正式な寺号は、「太子山 上宮寺」というのである。柳堂(太子堂)と同じく、この地では、聖徳太子信仰が盛んであったことは間違いない。
もともとは天台宗であったのが、親鸞聖人が柳堂滞在中に、浄土真宗に帰依。佐々木盛綱がその後を継いだりし、妙源寺と同様、三河高田系の中心寺院となって栄えるが、三十代の佐々木如光が、蓮如上人に帰依。如光は、大谷破却の時にも大活躍して、上人を支えた有力な側近として、かの地にもさまざまな伝説が残っていた。
三河三ケ寺のひとつで、100ヶ寺以上、1万とも3万人とも言われる門徒を束ねた本願寺系の有力寺院としてたいへんな勢力を保つが、三河統一をはかる、徳川(松平)家康と対峙。一向一揆の中心寺院のひとつとして戦うも、破れて、三河の本願寺系の寺院は、ことごとく破却、僧は追放となっるも、彼らは、長島の一向一揆で、今度は信長と激しく戦い、破れるという壮絶な歴史のあとも残る。
その後、許されて再建されるが、なんと昭和63年に大火災によって、本堂を中心に大部分が消失して、平成になってから再建されたのが、このモダンな本堂だ。なるほど、それで前回は、ここに参詣しなかったわけだ。
いろいろな歴史的背景もさることながら、今回の収穫は、資料館に清澤門下の三羽烏のひとり、佐々木月樵師の展示があったことだ。廃仏毀釈が吹き荒れた明治期に、初代の清澤満之師、二代目南條文雄師に続く、大谷大学第3代目の学長として活躍された碩学のお寺であることを、まったく知らなかった。
この一ケ寺の歴史をみるだけでも、黎明期から近代までの浄土真宗の歴史の一端を知ることができるのだ。
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