10月の輪読法座
10月の華光誌輪読法座。
巻頭言、「正しい信とは」の輪読。正信偈の構造なので、補足解説を丁寧に加えて、皆さんと分かち合い。いつもなら、続いて「聖教のこころ」を輪読するが、今日は、わが身の心境に疑問を話された方があったので、輪読は早めに切り上げ、そこに焦点を合わせた座談・示談形式となった。
それにしても、凡夫の私は轉倒(てんどう)している。
頼りにならないものを頼りに、ほんとうは頼りになるものを信じないのであるから。
わが心、わが身は、ほんとうは無常で、虚仮で、無我であって「我」などないはずなのに、その頼りにならない「我」を頼りにし、そのわが心やわが身を根拠に、ほんらいは、常楽であり、真実であり、真我である「如来」様を計らい、信じようとしているのである。それでは、どれだけ「信じた」と堅く言ってみたところで、その「我」レベルならで、絶対に安心はできない。
そうは分かっているつもりだ。だら、私ではなく、如来様をたよりにしようとするのだが、どうしも、私のところに届いてきた如来様の「有り難い」やら「尊い」やらの想いを頼りに、信じているとか、ダメだとか一喜一憂してしまうのである。
親鸞さまは、その自力をひるがえして、捨てよと仰っている。
自力のこころを捨てるとは、
自らが身を善しとおもうこころを捨て
身をたのまず
悪しきこころをかえりみずに
ただひとすじに
具縛の凡愚、屠沽の下類と信知し
不可思議の本願、広大智慧の名号を、ふたごごろなく信楽するならば、
摂取不捨の光におさめられる
のであるのだ。
でも、どこまでも、わが身を善しとおもい、身をたのみ、わが身の至らなさをおれこれ思っていく。そのこころは、どこまでも虚仮不実なのだ。ただひとつ、「頼んでくれよ」「まかせてくれよ」の先手の本願を聴くのである。
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