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聖典講座~正信とは~

 今月から、聖典講座も担当することになった。

 開始前に、雷鳴が轟き、かなり強い雨が降った。皆さんの出足を挫いたかたちになったが、それでも、東海や北陸なとの遠方からのご参加もある。

 7月で『正信偈講座』のプリントが終了したので、今回はその総まとめ。これまでの4年間、40回近い講義のなかで、悟朗先生の微に入った解説がなされている。それで今回は、もう一度、全体の構成をみることで、この4年間、お聞かせに預かってきたお正信偈を改めて味わっていこうというものだ。

 まずは、改めて、「正信念仏偈」の題名について。相違釈として「正信と念仏を明らかにする偈」とも、また依主釈として「念仏を正信する偈」とも見ることができる。いずれにせよ、正しい信について述べられたものである。

 逆に言うと、正しくない信もあるのだ。まず「迷信」であるが、これは仏教の因果の道理に背く信だ。それ以外にも、「傍信」(聖道門の信)、「邪信」(十九願の信)、さらに、「雑信」(二〇願の信)の自力の信心に対し、「正信」は、第十八願の他力信心のことである。

 他力信心とは、冒頭の「帰命無量寿如来、南無不可思議光」なのであるが、これは親鸞様の体験告白(自督)であると共に、一偈の要点でお正信偈全体が、この1行に収まるといってもいい。

 そこから、「法蔵菩薩因位時~」という真実の示現があり、弥陀の救済の因果が説かれていくのであるが、それを教えてくださったのが、釈尊である。その弥陀の救済の因果、本願をと説かんがために、ご出世になったのである(如来所以興出世 唯説弥陀本願海)が、われわわれ五濁の衆生は、ただその釈尊の真実のお言葉(成就文)を信じさせていただくのである(五濁悪時群生海 応信如来如実言)。

 がしかし、それは自力では絶対に信じがたい、難信(信楽受持甚以難、難中之難無過斯)なのだ。

 そこで、釈尊の真意を体得されたインド、中国、日本の七高僧方のご出現があって、釈尊の本意、弥陀の本願が誰のためなのかが、明らかにしてくださった(顕大聖興世正意、明如来本誓応機)。七高僧それそれが発揮をなして、釈尊から次々とバトンを受けて、そのお心をくみ、弥陀の本願の目当てを明らかにしてくださった。つまり、無辺の極濁悪を救うために、釈尊(大経)を通して弥陀の本願を弘通してくださったのであるから(弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪)、いかなる人たちも、共に、どうかこの高僧の説を唯信じさせてもらいましょう(道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説)と結ばれるのである。

 正信偈は、南無阿弥陀仏に始まり南無阿弥陀仏に収まるのだが、その南無阿弥陀仏は、「重誓名声聞十方」であって、釈尊の説法として、またその正意を受け継いだ七高僧の教えとして、親鸞様が喜ぶ身となられたのである。それで、私達は、さらに親鸞様の正信偈を通して、そのことをお教えいただき、それを善知識の直々の声を通して、懇ろにお聞かせに預かったいるのである。それで、末法の泥凡夫なれども、南無阿弥陀仏を聞信することができるのである。釈尊の真実の言葉として、七高僧の説を通して、さらに親鸞様の教えを通して信じさせていただく。それが正信することなのである。南無阿弥陀仏。

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