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東京支部法座~分級座談会~

 仏の子供大会、お盆参りと続いて、宿泊での東京支部法座、広島での真宗カウンセリングWS、高山法座と連続してある。

Img_6700 まずは、東京支部法座へ。
 晴天続きだったが、今日は、曇っている。雲間の間に、富士山がちょっとだけ顔をだしている。ちなみに帰路も、曇ったり、雨だったりしたが、一部だけ、かすかに夕日と重なった姿を拝めた。

 暦で16日までがお盆だがImg_6715、今年は、17、18日が週末になって、お盆休みの家族連れで、駅や新幹線はかなり混雑していた。

 逆に、支部法座の集まりは低調だ。帰省中の方も多かったし、猛暑で体調を崩した方もあったようだ。

 人数は多くなかったが、2日目昼からは分級座談会にした。完全に仕切れない隣の部屋なので、声が漏れてくる。笑い声は、賑やかである。こんな時は、隣室の方が、活発で楽しそうに思えてきて、隣のグループにしたらよかったなーなどと考えていると、実は、隣室の方もそう思っているということが、往々にしてある。こんな時ても、隣の芝生は青いようである。

 ところが、今回は、ちょっと違った。隣は、講師はなくて同行2名が司会役をされたが、最初から、正直に、自分の不審を言葉にされる方があったようだ。少人数、しかも同行同士ということで、自分を打ち出しやすかったのだろう。座談会などを通して、自分の喜びと、皆さんとの味わいがズレているところを、率直に疑問に思われていたのだ。

 信心の世界は、阿弥陀様と私との関係であって、他人と比較するものではなく、あくまで、「われ一人」で聞く世界だ。だから、他人と比較して、どうこういっている間は、なかなか自分の聞法が進まないものだ。
 しかし、同時に、他人からの指摘だけではなく、、自らその違いに気付かせていただける世界でもあるのだ。三量の中の比量である。なかなかそれか気付けない。そのために、他の同行の的確な指摘は、耳が痛くて聞けないものだ。だいたいが聞いたふりをして終わる。

 その点、自ら不審を包み隠さずうちだし、こうべを垂れてお聞かせに預かることは、単なる比較の世界ではない。自分のところを飾ったり、誤魔化したり、合わせたりするのではなく、不審を不審と聞かせていただき、そのままうちだしていく姿勢が、ほんとうに尊い。そして、その不審を知識や同行にお尋ねしたなら、最後に、「南無阿弥陀仏、ありがとうごさいました」とImg_6704_1申させていただくのである。それが凡夫の聞法ではないのかた。

 分級座談会でのある同行の姿を通して、尊いご縁に合わせていただいた。

(写真は、会場の全林野会館からスカイツリーを眺めていると、飛行船が飛んでいた)

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