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安芸高田市での家庭法座

Img_6020 7月の第1週目は、広島の安芸高田市での家庭法座。恒例になって、すでに9年目に入った。
 いつもと同じように、広島駅に集合して、会所の家業であるジャンボタクシーの送迎を受けて、約1時強かかる。それでも、ご親戚や地元の坊守さんもお参りに加えて、Img_6019備後の福山や島根からのお参りが、30名ほどあって、車座になると、会場は一杯になっていた。ここは、年々人数が増えているようだ。

 これまた楽しみの一つである、蓮の華は、昨晩の雨で散ってしまったそうで、次の蕾は、これからというところ。今年は残念ながら、Img_6023拝ませてもらえなかった。
 今日は、不安定な天気で、強く雨が降ったかと思うと、日が射してたり、また雷雨になったりと、雨や晴れを繰り返している。それでも、縁側から開放された仏間には、涼しい風が入ってきて、心地よい。Img_6026

 軒下には、ツバメが子育ての真っ最中だ。親ツバメが田んぼの上を飛び回ってる。巣には、親鳥のエサを待っているのだろう。ヒナたちが、首延ばし、大きく口をあけて、鳴いている。
 子が親を待つのは、人間も畜生も同じようだ。

 法話の冒頭、シルクロードの旅の強烈な余韻が残っているので、そのことも少し聞いてもらったが、まだ写真などの用意ができていないので、予告程度に留Img_6022めた。親戚や地元の方もお参りされているので、なるべく平易な話題を心がけた。

 この世の中に、最初から、ゴミと言われるものはない。私のために役立ってくださったいのちが、私を活かし、使って不要になったものを、邪魔ものとして「ゴミ」と呼んで、捨てていくのである。同じによう、最初から食べ物といわれものもなく、すべていのちある「生きもの」なのである。高級ホテルを除いて、中国でのトイレはすごかった。とくに、田舎はハエと悪臭、そしてそのものが山盛りで、日本人にはちょっと堪えられない。しかし、よく考えたら、初めから糞というものはない。私が、いのちを「食べ物」として奪い、それを口から入れ、消化し、必要な栄養を奪い、不要になった残りカスを糞としてだすだけのことである。つまりは、私達が、汚がるゴミにしろ、糞にしろ、もともといのちあるのを、この私が使うことで、ゴミにしたり、糞にしているのである。元凶は、私自身にあるのだ。第一、私がきれいだと思っている、この顔。この顔かでるもの-目、鼻、耳、口、みんなクソが付く物ではないか。きれないと思っているこの顔から、実はろくなものはでないのだ。ご法に会うとは、私が正しい、他が間違っている、もしくは、私はきれい(清浄)、他が汚いと思っている見方から、真実の如来様の視点にたって、実は轉倒(てんどう)している姿を教えていただくことである。

 そして、もうとひとつ大きなどんでん返しがある。私からでるものは、ゴミか、糞しかないように、私のこの口からも、怒りか、愚痴か、悪口や噂話の類と、ロクなものは出ない。しかしである。その虚仮の口から、真実の南無阿弥陀仏が飛び出てださるのは、何故なのだろうか。しかも、これだけは、泥の中から生まれて、けっして泥に汚されないで清浄の蓮の花が咲くように、私の煩悩に汚されることなく、真実・清浄の南無阿弥陀仏の華を咲かせてくださるのである。その南無阿弥陀仏の姿を、頭を垂れてお聞かせに預かることが、聞法なのである。

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