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動いてみる、そして味わってみる~真宗法座の集い~

   今年も「真宗法座の集い」が終わった。

 定員一杯だったが、直前にキャンセルがでた。ところが、当日も含めてすぐに補充が出来て、ちょうど定員20名と、世話人4名の24名が集った。 

 ぼくは、この法座がいちばん好きだ。
 輪読法座そうだが、今回も、法衣も着なければ、背広やネクタイもつけない。講師ではないので、司会もするし、準備段階で呼びかけ、買い出しや事務作業も積極的にやっている。以前は、どの法座も、ひとりで運営をしていたことがあるが、それともまた違う。法座の世話役は、座談会だけでなく、運営面も責任を持つのだが、参加者全員にも役割分担をお願いして、何かひとつは役割をもち、皆さんと一緒に進行していくのだ。それも含めて、みんなで作っていく法座なのである。来年は、少し早めに終わって、最後の清掃の時間を、プログラムに組み込んでおいてもいいかもしれない。
 全体会での始まりと終わりの、チェックイン、チェックアウトの一言の時間にしても、順番には回さないで、声に出したい人から、随時、声出してもらう。参加者全員が、なんらかの形で少し積極的に関わってみれる、そんな法座をめざしている。もちろん、顔ぶれが変われば、その内容も変わってくる。今年は、初参加者も多かった。その割には、動きがあった法座だと思った。

 ぼく自身の心境も、毎年異なる。心境が異なれば、態度も代わってくるだろう。その意味では、少しは重苦しさから自由な動きが出来つつある。もちろん、まだまだ引っ掛かりは多いですが…。

 もともとこの集いは、ぼく自身が企画した意図があって、ぼくが指向する方向性を色濃くもったグループである。一口でいうのなら、パーソンセンタード指向の念仏法座(もしかすると、両者の単語が入れ代わることもあるが、この二重性が特徴だ)といっていい内容になってきている。参加者の思いを尊重しながら、それぞれの出会いがあり、それでいて人間の出会いを超えた念仏に帰る場を共有しあう、そんな集いを、皆さんと共にめざしている。

 そのためには、世話人同士で、その意図をよく分かち合えることも大切。その点では、十分かち合える方もあれば、まだまだ発展途上の関係もあって、その未熟さが集いにも反映されている点は、課題ではある。でも、少し時間をかけて、成長を待つことも大切だろう。発展途上もたま魅力でもあるが、もし成長しようという意欲がないとしたら、それは詰まらない。

 とにかく、いろいろと気付かせてもらったが、今回の法座を一口で譬えるならば、とにかく「動いてみる」、そしてその場で「味わってみる」ということになろか。

 導入から、グループ分けに展開する動きがユニークだった。グループ分けが固まってきたところで、黒板に書かれたメンバーで、グループに分かれて座ってみることを提案した。頭の中だけで、あれこれ考えるだけではなくて、とにかく動いてみる。試行してみるのである。そこか動きたくなったら別のグループに移動してもいい。3名グループだと、密度が濃くなって、しんどいと感じられた方もある。8名だとけっこう多い。6名のグループ、2人増えた感じと、2人減った感じは、また違う。誰も出ないグループもあれば、試行錯誤グループもある。自分が、居心地がいいというのは、好きな人だけが集めることとは、まったく違う。以前、好き嫌いでグループ分けを考えていた人もあったが、それでは意味はない。グループとの距離感は、安心できる感じと繋がるものである。ある程度味わえたら、自然と3~7名の4グループに分かれていたのが、面白かった。慌てることも、無理することもない。あとは、自分で選んだのであるから、そこでどんな展開になっていくのかも、また自分に引き寄せて味わうことができるのだろう。

 いろいろな思いや認知、そして気持ち(感情)も大切なのだが、自己の中だけでグルグル回るだけでなく、身をもって行動してみることで、案外、道は開かれていくのかもしれない。

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