ゆかり(縁)
大人の法座では、法話で、ある語録から、仏の三不能のことに少し触れた。
業を滅すること能わず、縁無き衆生を度すること能わず、衆生界を度し尽すこと能わず…これを「仏の三不能」と言うと聞かせてもろた。
うらは、この三不能が知れることのほかに、お助けはないといいたい。
前川五郎松同行の語録である。なかなか深い味わいだと思ったが、午前中も、たまたま同人の中からも、「縁なき衆生は度し難き」という話題がでていた。
休憩中、お菓子をいただく。
広島なのに、なぜか東海地方のエビせんべい「ゆかり」だ。袋をあけて、食べだしたところで気がついた。
「ゆかり」の白文字の下に、白線で「縁」と書いてあるのだ。銘菓なので、何度か食べてきたが、エビセンの「ゆかり」が、「縁」という意味で命名れていることを、初めて知った。
「縁も、ゆかりもない」とはよく使われる。縁も、ゆかりも同義語なのだろう。所縁と書いて、「ゆかり」と読ませることもある。
しかし、「縁」があるという使い方はあっても、「ゆかり」があるとは言わない。「ゆかりがあるよ」というと、お菓子がある意味になるな、などとバカなことを思いながら、お隣の方のエビせんを無断借用して、撮影。
つくべき縁あれば ともない
はなるべき縁あれば はなる
以前、東本願寺前の掲示伝道で観た言葉だ。ここ数年は、この言葉の事実をしみじみ体感させられる出来事の只中に、身を置きながら、生きている。
でも、もとを辿れば、今日、ここに集う人達の大半が、最初は「縁もゆかりもない」方々であった。それが、それぞれの不思議なご因縁、仏縁にほだされて、いまご一緒しているだけのことである。そして、お互いが、無常の、そして虚仮の身をもっているのであるから、もし離れるべきご因縁が整ったならば、また離れていかねばならない。
ならばこそ、いま、ここに集う人達との一期一会の出会いが、なんとも尊いのである。
そして、人間同士は離れることがあっても、私のいのちにつきまとってくださっている阿弥陀様だけは、けっして離れられることはない。
ひとりひとりが、阿弥陀様に願われている、縁ある衆生なのである。
では、「この三不能が知れることのほかに、お助けはないといいたい」という、五郎松同行の言葉は、どう味わうのか。ぼくは、ここは、「唯除は、仮徐ではなく実除である」というおこころに通じるお言葉だと聞かせてもらっている。
皆さんの味わいもお聞かせください。
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