善導独明仏正意
5月の伝道研究会。前回から、六字釋に入った。
六字釋は、善導様が、名号「南無阿弥陀仏」をご解釈くださったのが、緒である。今日の安心論題では、南無阿弥陀仏には、阿弥陀仏の願行、悲智が円具されているもので、私どもを往生成仏せしめる行体であることを明らかにされたものだといわれている。
では、何故、「南無阿弥陀仏」をそのものをご解釈なさったのか。もちろん、阿弥陀様そのものを解釈できるのは、凡夫ではなく、やはり大心海から化現された御方ならばこそである。しかしながら、そこには、時代の背景が横たわっている。道綽、善導大師の『観経』下下品の十念念仏往生の主張に対して起こった批判を、論破されたものである。
逆にいうならば、それまでの浄土教にない発揮があったればこそ、また批判が生まれ、今度はその批判を論破することで、六字釋が生まれて、いよいよ阿弥陀如来のご本意が明らかになってきたのである。だから、その背景を知ることも、また尊いのだある。
まさに、「善導独明仏正意」のおこころである。
今回は、別時意趣方便説について、詳しく輪読した。
別時意趣とは、無着菩薩の『摂大乗論』にもとづく摂論学派の偏執者によって、『観経』下下品の十念念仏往生は、唯願無行であって、往生別時意説であるとして批判されたことによる。『摂大乗論』には、仏の説法について、(1)平等意趣、(2)別時意趣、(3)別義意趣、(4)意楽意趣の四種の方便の趣を示されているが、今その(2)、別時意趣である。
平たくいうと、釈尊の説法について、怠惰で精勤ではない劣機を激励するための方便として、遠く未来でしか獲得できない証果を、即時、または近時に獲得できるかのように示されたというである。詳しく見ると、そこには「往生別時意説」と「成仏別時意説」とがあるが、ここでは、前者の「往生別時意説」にあたる。
つまり、摂論学派が下下品の臨終の十念では、遠生の因にはなるが、未だ往生を得ることはできないと主張したのに対して、まず、道綽禅師は、十念成就は過去の宿因によったものであるから、臨終の十念成就は即生の因となるのであるとされた。さらに、その道綽様を受けた善導大師は、十声の称名、即ち名号南無阿弥陀仏の中に願と行とが具足していると示し、願行を具足の故に、即時に往生ができるのだと明かして、浄土教批判を論破されたのである。
詳しくは、テキストを参照くださる(14年の講習会)として、皆さんの感想の中に、聖道・浄土の分別を知らず、また往生と成仏とを混同し、さらに、『観経』の十念往生を法義を曲解して、これを行と知らずに唯願無行と混同していると批判されている摂論学派の偏執者と、まったく私は同じだという声があった。つまり、これまでの仏教の常識、行や往生の理解からみれば、下々品の悪人が「南無阿弥陀仏」ひとつで、即に往生できることの方が、おかしいのように聞こえるというのである。簡単にいうと、南無阿弥陀仏称えたくらいで、往生できるのかというこころである。しかしながら、その批判、疑問のおかげで、ますます他力回向の南無阿弥陀仏のお心が明らかになってきたのである。それを、私の上でいうならば、その生きた南無阿弥陀仏に私が出会わねば、けっして頷かせていただけない世界なのである。
次回は、善導様の六字三義の深意にはいる。
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