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余韻

 永代経法座が終わってから、あっちこっちと出歩いているが、その間も、法座の余韻を味わっている。

 7座のうち、6座が、6名のご講師のご法話。1座は、華光大会から移って、信仰体験発表の時間となった。

 どの先生のご法話も尊かったし、印象に残ったり、影響を受けて本を読んだりしたのだか、中でも、ご満座の悟朗先生の法話が、さまざまな意味で印象的だった。
 皆さんも、、驚かれた方もあっただろうし、悲しい思いされた方もあっただろう。「これ以上ない最高のお説教でした」と涙された方もあった。

 実は、永代経の数日前から体調不良。前日に医者に連れて行くと、症状は単なる風邪で、それ自体は心配はないとのこと。何分、高齢なので油断できない。法話も、体調次第で、交代する覚悟もしていた。しかし、当日は、案外元気で、本人からも大丈夫とのことだったが、何も準備はできていない。

 まさに、老体に鞭打ての身業説法だった。

 何も仰らず、時にしんどそうに頭を抱えながら、座っておられる。

 なんともいえない沈黙で、緊張感が道場に漂っている。

 その尊いお姿に、感極まって嗚咽と共に号泣念仏される方もおられる。
 先生を拝んむ方もおられる。
 すると、皆さんの声を制し、小さな声で、

 「ご一緒に称名念仏申させてもらいましょう。南無阿弥陀仏しか、真実はありません」

 皆さん、一緒に合掌し、称名念仏をさせてもらう。

 ひとしきりお念仏が続くと、先生から、皆さんを静止の合図をされ、静まる。すると、

 「こんな合図で終わるほどのお念仏ですね」と、ユーモアを交え、また一言があって、皆さんがお念仏をする。

 そんなことが繰り返された。

 ぼくもその仲間にいれてもらいながら、静かにお念仏させてもらった。すると、不思議な感覚なのだが、なんともいえない安らぎというのか、至福の思いに包まれているのを感じた。この時間がもっと長く続けばよいという気持ちもになった。大悲のお心に触れて、有り難いとか、尊く、感銘で心を動かされた法話や座談もあるが、こんな静かな至福感を味わったのは初めてかもしれない。といっても、それも30分までの話。それを過ぎると、もうそろそろ終わったほうがいいんじゃないかなと、心配にもなってきたが…。

 別に、いつものような法話があるのでもない。厳しいことを仰るわけでもない。ただ、悟朗先生を中心に、道場に集う人達と、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏々々」と、ただ称名念仏させてもらうだけである。でも、そこに当たり前と思っていることが、実は有り難く、尊いことはないのだという真実に出会わせてもらえる、幸せをかみしめた時間だったのかもしれない。

 DVDを撮影されていた、Fさんが、ぼくのところにやってきて仰った。
「如来様のご説法を撮影させてもらいました。タイトルは、大悲の呼び声ですね」と。

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