フォーカシング・サンガの集いにて
1月以来、4ケ月ぶりに、フォーカシング・サンガの集いを開いた。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-cc9c.html
前回と同じく、松江から土江先生をお呼びして、6名限定の少人数の集い。ところが、肝心のM氏が急遽欠席で、参加者は5名のみとなったが、9時から5時までの1日研修だが、密度の濃厚な集いになったのではないか。
聞くにせよ、伝える(話す)にせよ、自分の気持ち(感情)に左右されがちだ。普通、感情とは、表面的な喜怒哀楽で、人の態度や言葉に激怒したり、ほめ言葉に喜んだりといった感情の起伏のようなものを指している。例えば、伝え方として、怖い顔をしながら、防衛的な態度で、正論を話しても、なかなか相手には伝わらない。そんな時、相手に伝わるのは、防衛的だったり、感情的だったりする、ノン・バーバル(非言語)な部分の方が、大半だからだ。実は、伝える時だけでく、聞く時もまた、そんな防衛的態度になってしまいがちだ。カウンセリングでいうところの、いまの体験過程に生きていないで、傷つきやすく、自己不一致の状態になっているのだ。一対一で向いあった場面はともかく、日常のコミニケーションでも、そのことを気付けないでいることが多い。自分の方に、正論や正義がある場合は、なおさらだ。
カウンセリングは、事柄よりも感情を大切にするが、この感情とは、喜怒哀楽といった表面的な感情ではなく、そのさらに奥に繊細に隠れているカラダの感じ(フェルト・センス)を手がかりに聞いていくことが重要になってくる。カウンセリングをかじったものでも、案外、このことを忘れて、自分や相手の表層的な感情に、過剰に反応してしまう人が多かったり、そんな場面をよくみかける。
この場合は、聞くにせよ、伝えるにせよ、自分のカラダの感じ、フェルトセンスの声をしっかり聞くことがポイントだ。これは、簡単なようで、なかなか繊細で、微妙な感じなので、激しい感情の波の前には、すぐに砕かれてしまうのである。
今回は、カラダを少し動かし、静かに瞑想をした後で、語りたい人(フォカサー)が、聞き手(リスナー)に話し、その感じを味わっていく。今回は、エンカウンター風の車座のままで、焦点をあてる聞き方の固執はなく、自然な感じであったが、聞き手もつとめて、聞いたところを伝え返しをしながら、焦点(フォカース)あてる聞き方の実践をおこなった。
個人的には、瞑想の時に、自分の中にある「貪欲・愼恚・愚痴」を指折り数え、一つ一つには深く踏み込まないで、「こんな怒りもあった、こんな欲もあった」と観察していくワークか面白かった。それを正当化するのでも、また卑下するのでもなく、だた観ていくという作業で、問題との距離を計ることができるのである。個人的には、恐れというのが、ある怒りを生んで、その根を辿っていくとかなり根深いものがあることに気がついた。今回は、それ以上は、深いいれしないで、「そこにある」という感じを認めて、確かめるに届けた。でも、それだけの作業だであっても、終わりごろには、なにか悲しいでもない、切ないでもない、それでいてとこか温かなやさしさのあるあついものが、込み上げてくる感じがした。フラフラで、恐れながらでも、しっかり立って歩んでいける自分を発見したのかもしれない。
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