教信寺~播磨の寺院 番外編(5)
「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」
番外編として、鶴林寺から近い念仏山教信寺を訪ねた。以前、聞法旅行でも参拝したが、親鸞聖人がその非僧非俗の手本とされたと伝えられる念仏者のゆかりの寺である。
一般には、観光寺院ではないので、誰も訪れている人もなく、静かに参拝させてもらった。
ご承知の方も多いだろうが、教信沙弥(しゃみ)は、もとは興福寺の学僧だったともいわれるが、諸国を遍歴の後、播磨国賀古(かこ)の駅(うまや)(兵庫県加古川市)近くに庵を結び、教典も仏像も安置せずに、西に壁を設けずに、ひたすら称名念仏し西方浄土を願ったという。髪も剃らず、妻を娶り、子と共に生きる沙弥(しゃみ)として、もちろん権力や大勢とも無縁で、市井にあって、人々の荷物を担いたり、農作業を手伝うなど利他を行い、自ら称名念仏するだけでなく、人々にもお念仏を勧めた在野の念仏者である。それで人々から、「荷送の上人」とか、「阿弥陀丸」と呼ばれていたという。
阿弥陀如来の信仰に生きた人々の行実を集めた『日本往生極楽記』や、『今昔物語』に紹介されている。特に、その終焉には有名な逸話である。
八六六年八月十五日、勝尾寺(大阪府箕面市)の僧・勝如(しょうにょ)の夢枕に教信が立ち、「念仏により極楽往生を遂げた」と伝えた。弟子を現地に赴かせて確かめさすと、教信の屍は野にさらされ、群犬にその体は食われていたが、首から上は無傷であったという。
その説話を今に伝えるべき、教信上人の頭像が、開山堂に安置されている(今回は、外からのお参りだったが、聞法旅行の時に、写真も撮らせていただいた)。
後には、永観律師や、一遍上人、さらに親鸞聖人なども追慕されているが、たとえば、
常のご持言には、「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」と云々。(略)…愚禿の字をのせらる。これすなはち僧にあらず俗にあらざる儀を表して、教信沙弥のごとくなるべしと云々。これにより、「たとひ牛盗人とはいはるとも、もし善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるやうに振舞ふべからず」と仰せあり。 『改邪抄』
というのが、親鸞聖人の常の仰せだったと、覚如上人が記されている。他にも、聖人の言葉と伝えられている、
阿弥陀三尊をおまつりする本堂には、「野口大念仏」の扁額があった。教信上人をご命日におこなわれる会式が「野口念仏」といわれているのだという。
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