おかげ
3日間の永代経法座が終わった。
翌朝は、普通ゴミの収集日。玄関に出したら、絵の通り足の踏み場もない状態。
これに加えて、翌日のプラステックごみに2袋、翌々日のカン・ビンに3袋が残っている。
毎回のことながら、これを出し終えたら、行事が終わった気持ちになる。
紙コップもお弁当の容器も必要なものであり、中には食べもの、つまり、生きものもあったのだ。どこにも最初からゴミといわれるものは、この世には存在しないのだ。ただ、私が、もう必要でなくなり、利用価値がなくなって、邪魔者になったら、側に置きたくないので、ゴミと蔑稱して捨てていくだけのことである。
私の「有り難かった、尊かった」には、期間中は目に触れないところに隠され、行事が終わったら捨てられていく、ゴミと嫌われているいのちのおかげの上にしか成り立ってはいないのだ。
そんな当たり前のことすら分からないのが、無明の私の姿なのだ。
だって、絶対に、この臭い匂いするゴミを、有り難がって拝まないものなー。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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