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ゆるされて聴く

 親鸞聖人は、『行巻』と『化身土巻』に二度、『大経』の異本である『平等覚経』の往覲偈にあたる御文を引用されている。

「宿世の時、仏を見たてまつれるもの、楽(この)んで世尊の教を聴聞せん。人の命稀(まれ)に得べし。仏、世にましませども、はなはだ値ひがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ。(略)」

 上記引文は、『行巻』であるが、『化巻』(板東本)の部分の「聴聞」のご左訓(親鸞様が、文字の左側に、その読みや意味などを書き記されたもの)に、

「ユリテキク シンジテキク」

 と記されている。もっとも、写真版をみる限りでは、素人にちょっと判別しずらい。ちなみに、『行巻』の左訓では、「ユルサレテキク」とあるのだが、これは、清書本(西本願寺本)だけで、板東本にはなかった。

 ところで、この「ユリテ」とは、「ユルサレテ」の古語であるのだから、意味は同じである。

 ゆるす-許す、赦すと、普通は書くが、たとえば、この漢字辞書の文字変換をみても、15種類(旧字体を含む)の漢字か標示されていた。その一部だが、「許、赦、允、免、放、宥、容、恕、釈、縦、聴」などがあった。「聴」の字は、音読では、「チョウ」「テイ」だか、訓読では、「キ」くと、「ユル」すと表記されている。そしでその「聴」には、「先方の望みをきき入れる」という意味がある聞き入れるという。

 また、「ゆるす」というのは、「相手の意志を受け入れる」「願いを聞き入れて、聞き届ける」といわれている。

 つまり、端的に述べるならば、私が如来様、その大悲のお心によって、先手をかけて「聞き届けられている」「受け入れられている」ということであり、その先手の大悲心があるからこそ、そのお心を「信じて聞かせて」いただけるのである。

 そもそも、私が如来様のみ教えを聴聞できるのも、宿世の時に如来様を見奉った宿善のたまものである。だから、「楽(この)んで」、如来様のみ教えを聴聞させてもらっているのである。絶対に、「楽んで」仏法聴聞する輩ではない私が、ここに、ご聴聞の身にさせていただているのも、如来様のお働きにはかならない。

 だから、私が聴くのではなくて、すでに、如来様に聞き届けていただている。許されている。信じ切ってくださっている。そのお心をひとつをお聞かせに預かるだけなのである。

 広島支部では、このお心を、正像末和讃の

  如来の作願をたづぬれば
   苦悩の有情をすてずして
   廻向を首(しゅ)としたまひて
   大悲心をば成就せず

のいわば仏願の生起本末に即した和讃を通じて、その大悲のお心のほんの一端に触れさせていただくご縁をいただいた。

 如来さまに、私のすべてが見抜かれ、すべてが受け入れられ、そしてすべてが許されてい、ただ「そのまま来い!」「いますぐ来いよ!」の大悲の呼び声で、十劫が昔より叫び続けてくださっているのである。

 (参照・「親鸞における聞の構造」信楽峻麿先生)

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