体験的一歩
今年のお正月は、いつものように映画に加えて、最近では珍しく読書にも時間を費やした。
新しい本ではなく、昨年読んだり、これまで読みかけていた本のページをパラパラめくっては、アイダーラインや付箋がついてある場所、気になった箇所を読み返したりをした。まあ、ザーと眺めるだけなのだが、これがけっこう面白かった。以前、途中で挫折してた袴田憲昭著『本覚思想批判』、セイモン・イングス著『見る』~眼の誕生はわたしたちをどう変えたのか~(著者の好奇心のすごさ、博覧強記ぶりには脱帽)、そして、野口晴哉著『風邪の効用』と三枝誠著『整体的生活術』(本音のみで書かれた、歯切れのよさは最高。善男善女の恐ろしさと、悪人のすすめが面白い)と、興味深く読んで印象深かった、池見陽著『僕のフォーカシング=カウンセリング』だ。
特に、最後の池見先生のものは、いまの僕自身の関心事もっともフィットするもので、いわば、痒いところにビッタリ届くような画期的な書物だ。その文体といい、着眼点といい、カウンセリングのライブ感(アドリブ感)というか、もっとも言葉にしずらい、「その人なり」の直感的ものも含めたパーソナリティーの部分を惜しげもなく表明された、実践的な書物だ。
あちこちにアンダーラインや付箋を張り付けているのだが、それでも、読み落としている箇所に、ハッとした。
人は自分が感じていることの中で、今まではっきりわらかなかっこと--これをインプリシットな側面という--がわかってくるとき、〈ああ、わかった!〉といった興奮を体験する。この体験は理論用語で〈体験的一歩〉と呼ばれ、フォーカシングの実践用語では、〈フェルトシフト〉と呼ばれている。
こうして、フォカサーの中で、「新しい体験の側面が動きはじめている。それは、新しい気持ち、というばかりでなく、新しい生き方、あり方にも関係している」
明白なものの周辺にはグジャグジャ、モゾモゾと流れ、すでにカラダでは感じられてはいるけれども、まだ意識として明確になっていない感じに焦点があたり、意識化され、名付けがなされて、体験と、意識と、言葉がピッタリとした、「あ、わかった!」という気付き体験、つまり「フェルトシフト」を指しているのだろうけど、このような気付きが、理論用語で、「体験的一歩」と名付けされていることを、すっかり読み逃していたことである。
「一歩出る」-仏法では、常々お聞かせに預かる言葉であるが、これは単なる一歩ではなく、身も心もかかった「体験的一歩」であり、単なる気持ちの持ち方といった慰めではなく、新しい生き方、在り方の動きの始まりとなるものだ。いくら、正しい言葉を並べ、口では納得しても、この「体験的一歩」の踏み出したがないと、前には進んでいかないのである。
「体験的一歩」。こんなぴったりした用語があったんだなー。
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