« 『籠の中の乙女』とアップルクランプルケーキ | トップページ | ひろしま男子駅伝 »

燃焼

 1月の輪読法座。司会役のT君、中心メンバーのMさんが欠席で、全般におとなしめに進行。

 滋味深い巻頭言「親を求めて止まぬ業魂」を読む。絆、絆、とつながり強要する社会のムードがあるが、ほんとにう帰るべき所はどこなのかを、味わう。

 今号の「聖教のこころ」は、嗜好を変えた。いつもの聖教に、解説や味わいを加えるのではなく、釈尊のお言葉の現代語訳のみを、掲載いした。それで、通仏教(釈尊)の当面の立場と、煩悩具足の凡夫がそのままおめあての真宗でのいただきぶりの違いを説明しながら、各自の味わいを分かち合う。みんなで、声を出して読みあうだけでも、有り難かった。(以下、増谷文雄先生の「仏教百話」より掲載)

   -象頭山(ガヤーシーサ)での説法-

 比丘たちよ、すべては燃えている。熾燃(しねん)として燃えさかっている。そのことを、なんじらはまず知らねばならない。
 比丘たちよ、一切が燃えるとは、いかなることであろうか。比丘たちよ、眼は燃えているではないか。その対象にむかって燃えているではないか。人々の耳は燃えているではないか。人々の鼻も燃えているではないか。人々の舌も燃えているではないか。身体も燃えているではないか。心もまた燃えているではないか。すべて、その対象にむかって、熾燃として燃えているのだ。比丘たちよ。それらは、何によって燃えているのか。それは貪欲(むさぼり) の火によって燃え、瞋恚(いかり)の火によって燃え、愚癡(おろかさ)の火によって燃え、生老病死の焔となって燃え、愁い・苦しみ・悩み・悶えの焔となって燃えるのである。
 比丘たちよ、このように観ずるものは、よろしく、一切において厭いの心を生ぜねばならぬ。眼において厭い、耳において厭い、鼻において厭い、舌において厭い、身において厭い、意においてもまた厭わねばならぬ。一切において厭いの心を生ずれば、すなわち貪りの心を離れる。貪りの心を離れれば、すなわち解脱することを得るのである。」 (相応部経典・燃焼)

 Img_1055

 2月の輪読法座は、16日(土)昼1時30分~ 悟朗先生の「ほんとうに大丈夫か!」からの予定。 

|

« 『籠の中の乙女』とアップルクランプルケーキ | トップページ | ひろしま男子駅伝 »

法座と聞法」カテゴリの記事