« 年内発行のタイムリミット | トップページ | 大掃除 »

師走の東海支部法座

 久しぶりの東海支部法座。寒い時期は、ぽくの担当だ。12月に入って、寒い日が続いていたが、ここ数日は、少し寒さも和らいで穏やか。といっても、また次ぎの寒波がやってくるのだろう。

 テーマは、広島法座や高山法座で行なった少人数での話し合い法座である。3つの問いに対して、皆さんの活発な意見を、協力しながら話し合ってもらうというものだ。かなり、参加者の動きにも左右されるので、まったく同じ内容でないが、主な点は重複するので、先月の広島法座の記事を読んでもらえればと思う。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-90c2.html

 最近、信仰座談会の課題を考えることがある。どうしても深刻な顔になるし、態度にしても硬くなる。当然、黙り込む人も増えるし、指名されないとなかなか口を開けないのに、無理な指名にシドロモドロということも多い。賑やかなのは、一方的なお勧め側という座談で終わることもある。もちろん、気楽な雑談や噂話をしているわけではない。自分自身が問われる場であり、私の後生の解決の場なのだから、口が重くなるもの当然といえば、当然ではある。しかし、それにしてもと思うのだ。
 せっかく、阿弥陀様のお徳を讃える場であり、南無阿弥陀仏に出会った慶びを語る場でもあるのならば、もっと楽しく、笑顔とお念仏の溢れる場あっていいような気がする。お勧めにしても、ワンパターンのように、大声を出さなくても、強引に迫らなくても、また感情的になったり、教義の理詰めでなくても、阿弥陀様のお慈悲をお伝えることはできるのではないか。

 第一、法座の時だから、真剣に、又は真面目な顔で深刻ぶっても、日常の私はどうなのだろうか。煩悩具足の、自己中心の塊で、自己保全を第一に生きている。それが、法座の時で、「後生だ、信心だ、罪悪だ」と深刻ぶっても、そんなところに阿弥陀様のご本願はかかってはいない。むしろ、仏とも、法ともなく、自分が正しい、間違っていないと正当化し、人を批判して自惚れている私こそが、阿弥陀様のお目当てであり、願われて姿なのである。実は、そのことを教えていただくのが、法座の場なのであり、そんな自分に出会っていくのが座談の場だとするならば、よそ行きのなれない言葉で舌を噛む前に、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と褒めたたえるしかないのだけどね。

|

« 年内発行のタイムリミット | トップページ | 大掃除 »

法座と聞法」カテゴリの記事