今年最後の法座
今年最後の法座は、華光誌輪読法座。例年なら、この日がM家での京都支部法座と決まっていて、輪読法座はそれ以降にあるが、今年は、順序が入れ替わった。
大遠忌法座の記念講演会に出講くださった信楽先生他、3名の先生方の記事。皆さんの反応は、他にもあったが、ぼくには、華光で信楽先生の立場の話を聞くのは、いろいろな意味で興味深い。誰かが、「これは大遠忌の時と違う内容ですね」と言われたが、そんなことはない。ほぼこの内容に添った講演だったとぼくは思ったが、表現や情的な味わいなど、ずっーと講演会の話しは、皆さん親しみがあったようだ。
ただ、その反応はさまざまだ。1)いつも華光の法話のようだったという方。2)その違いに気付いて批判的に受け取った方。たとえば、覚如、蓮如上人への二元論批判や、称名の勧め、または無明の取り扱いなど。3)違いに気付きつつも、その背景を理解して、自分の聞法の糧へと転じていった方。4)そんなことはどうでもいい。ただ拝聴するだけ。という方などがあったようだ。
やはり違いはある。先生に対して違和感や批判的に感じられた方の聴き方は、むしろ、華光でもしっかりご聴聞ができている方だろう。しかし、ここが、念仏往生の法然聖人をよき人と仰ぐ親鸞聖人の流れと、その親鸞聖人を開山として仰ぐ、教団を背負う覚如、蓮如上人の直接の流れは、真宗の二大潮流であって、ある意味では、浄土教の二大潮流にも通じるものがある。その点を、しっかり踏まえていくと、違いを単なる批判や自分たちを過剰な評価に留まらずに、学ぶ点も多くある。特に、名号→信心→称名(その底には願力)という名号の独用か、称名→聞名→信心と展開する信楽師の実践的な信心理解をどう捉えるの。また、最後にでた、念仏者の「徴」について、どう味わうのか…。違いを通じて、華光の流れをハッキリと聞かせていただく好機なのかもしれない。
若手の僧侶から、行信に絞った話し合いの法座の提案があった。来年2月もに実現の予定で調整中だ。
今日は法座のあとも、胸の始末にかかって不審を訴え方とのご示談。前のご法座では、自力の心に見切りをつけて、他力を頼むことをお聞かせに預かることに”決定”しながら、やはりなかなかしぶとい自力執心に泣いておられる。心境を聞けば聞くほど、ゴミ漁りをし、その心に響かそう一心不乱だが、まったく動かない心を歎き続けておられる。でも、実は、その虚仮不実そのもの、無明そのものを相手する心こそが、他力(本願)を頼まない、自力の正体なのだろう。こちらが、一緒にそのお心につきあして、どうこうしようとしても埒は明かない。相手の心境にかかわらず、ただ諄々と、倦むことなく、阿弥陀様の願いを、しかも具体的にお伝えしていくしかない。
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