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2012年12月の15件の記事

修正会のお誘い

Img_3077_2 1月1日(祝) 昼1時30分より、華光会の修正会を勤めます。

 元日、皆さんと一緒に、お正信偈と、現世利益和讃をお勤め。

 こ法話は、父のごあいさつのあとで、ぼくが担当することになりました。内容は、これから考えます。Img_3076

 お荘厳などの準備も、進んでいます。

 お飾りが、まだ若干の残っているのかなー。今年も、鏡餅は、きれいに完成。

 元旦の天候が気になるところ。寒かったり、大雪だったりすると、お参りは減りますが、さて、どうでしょうか。

 詳しくは、HPを参照のうえ、皆さん、お参りください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2013/details/01/shusyoe2013-1.htm

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三連ちゃん

  華光誌の発行があったので、ちょこっとだけ無理をした。もう若くないので、昔のようにはいかない。華光誌渡しの翌日の東海支部法座の後の飲み会を終えて帰宅したら、唇が腫れてきた。でも、翌日にも前から約束があって御馳走を食べてきが、朝には、目の回りにも発疹がでて、目も真っ赤になってきた。寝込むほどではなかったが、しばらく長引いた。無理はできないというサイン。その週は、ちょっとだけ大人しくしていたが、このシーズンは飲み機会が増えるので、次週からは解禁。

 久しぶりに、M先生にお声をかけてもらった。沖縄料理の居酒屋で待ち合わせ。ところが、24、25日と臨時休業のお知らせ。クリスマスの時に、わざわさ休む飲み屋さんがあるんだとと驚いたが、近くの京野菜の炙り料理で、二人で忘年会。

 翌日は、M君とRちゃんを誘って、以前から約束していた飲み屋さんへ。ところが、早めに着いたのにお店が閉まっている。隣で聞いたら、マスターの体調不良らしい。それなら、行きImg_3066たかったスペイン料理のお店に入ったが、ここは予約で一杯だった。次ぎの予約の2時間以内ならということで、ご馳走を食べて、Rちゃんとバーでもう一杯。姪っ子と、二人だけで飲むのは初めてかもしれない。

 忘年会やクリスImg_3067マスの頃は、かきいれどきだなのに、2日続けて臨時休業に当たった。2度あることは3度あるが、今夜は、事前に予約が入っている。忘年会ならぬ、望年会。京都先斗町である。でも、雪は降っていない。
 人生は前にしか進まない。もし後ろに戻ったらエライことだとは、Img_3072あるカルトな洋画の名セリフ。確かに、いくら後を振り返って悔いて、反省してところで、覆水盆に返らずである。ならば、前を望んで語り合うことのほうが有益ではないか。人間も、欠点をあれこれあげへつらって萎縮するよりも、長所を伸ばすことも大切なことが多い。
 というわけで、今年の締めくくりは、楽しいImg_3070お酒となった。

 こうして、いろいろあった波乱の2012年も終わろうとしている。

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『ル・コルビュジエの家』

121215_2 アルゼンチン映画の『ル・コルビュジエの家』というのを観たけれど、これが、すこぶる面白かった。ぼくの中だけで、今年のベスト10に入る1本。でも、間違く、カルト的なので、世間では相手にされないでしょうがね。こんな心理描写がはっきりしていて、しかも皮肉というか、風刺が聞いている点もいい。隣人とのちょっとしたトラブルから、常識の仮面が剥がされていく、心理劇という点では、ロマン・ポランスキー監督の佳作(小作品だけど)『おとなのけんか』に通じる点があった。

 上映館の告知によると、、

椅子のデザインで世界的な成功おさめたレオナルドは、ラプラタにあるクルチェット邸に、妻子と共に暮らしている。ある朝大きな音で目を覚ました彼は、隣人がクルチェット邸に向けて、窓を開けるべく、ハンマーで壁に穴をあけている事に気づく…。近代建築の巨匠ル・コルビュジエが南米で唯一設計した個人住宅を舞台に、シュールな笑いに包まれたアート満載ムービー。

 とあったが、まず、冒頭にく壁をハンマーで壊すシーン。中から外からの壁の様子を、違うトーンにして見せるの映像が秀逸で、ここから関心させられた。

 成功した中産階級セレブ男。一見、仕事も、家庭も順調。家も家具も、友人と会話も洗練されている。ところが、隣人とのちょっとした行き違いから、ノイローゼに近いストレスに。しかも、順調に見えていた仕事も、また家庭も、夫婦関係にしても、子供との関係にしても、けっこう綻びがあったりする、心理描写が抜群なんだなー。もうのっけから、完全に彼に感情移入して、隣人の粗野な振る舞いにイライラ。それしても、トラブルメイカーの隣人の男の強面の強引さがうまかった。

 そして、ラストも、まったく予想外の展開で、これも◎。

 もちろん、オープン度満載の、本物のル・コルビュジエの家での、ロケが成功の秘訣で、オープンであることと、隠したいという人間の両性が、不思議なんだなー。

 参考までに、ル・コルビュジエとは、こんな人。ぼくは、上野にある、西洋美術館しか観たことないけどね。

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ぎっしりー

 新年号の華光誌の発送作業。

 華光誌に加えて、お手製の「年賀広告」も、うまくできてきた。華光誌と合わせて、64頁建て。3月の法話大会のチラシも同封した。こちもらぎりぎりで間に合ったが、好評だった第1回よりも、さらに人選や内容に自信をもっている。また詳しく告知したい。 助っ人は3名。ひとりは、まったく初めての奈良の方。ちょっと緊張気味で、作業。

 外では、仏青の有志が、外回りや窓磨き。中と、外で、並行して作業中。

 おかげで、仕事は順調。

 それにしても、華光誌の中身は、ぎっしり詰まっている。はっきりいって、論文集や学会誌じゃないですから、こんな文字だらけの雑誌、一般では受けないだろう。誌上法話、体験記、そして大遠忌の感想集まで、多少の写真はあっても、44頁までぎっしり文字が詰まっている。先日も、某別院の発行の機関紙をもらったが、一般の雑誌のようで、華光誌とは大違い。でも、文字だけでなく、中身も、ぎっしり詰まってると自負している。単なる感想ではなく、ひとりひとりのご法の味わいが尊い。もちろん、洗練された、いま風の編集で、中身があるには越Img_3053したことはないが、たとえ増えることはなくても、これが華光誌の役割かと考えているが、いかがか? まあ、これは、華光の法座にも通じる悩みでもあり、華光の強みでもある問題点。

 休憩にはいったら、初めての方が、お手製のお菓子を持参。えー、この袋をみて、「売りだれてるの?」と思わず尋ねたら、こんな袋も売っているそうだ。もImg_3054ちろん、お味も、プロ級。

 「こんなふうに発送されたり、お掃除されてるのは知りませんでした。貴重な経験でした」とのこと。それならば、せっかくなので掃除組のお手伝いの皆さんと記念撮影。ご苦労さまでした。

 

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ままならず(2)

 3年間かけて、全館の空調機の交換が終わって、大きな修繕や工事がないとほっとしていた矢先に、総会以降に、ポンプと、エレベーターの修繕の必要性が起ってきた。予算を計上していないが、飲み水と、安全にかかわることなので、ほっておくわけにいかない。世の中は、ままならないなーと歎いていたら、ほかにも、故障箇所が出てきて、頭が痛い話しの続編。

 今度は、事務所の照明器具が、寿命。華光大会の時、事務所が暗いなーと思った方もあっただろうが、別に節電のために蛍光灯を抜いてるわけではない。新品の蛍光灯に変えても点かないので、調べてもらったら、安定器が寿命。最初、一カ所だけだったのが、また一カ所、もう一カ所と…。器具ごと交換したらいいのだけれど、これはビルドインタイプ。それでは、この際LED化という手も、検討したけれど、今回は、急ぐのでパスとして、従来機種で。

 合わせて、3階の救護室の故障したエアコン工事も…。全館の工事だったっが、1階のぼくの部屋と、ここだけは後付けで設置したもの。それで、今回パスしたら、とうとうこちらも寿命。まあ、普段は使わないところだか、報恩講までには修繕が必要なので、照明器具と合わせて発注。それを年内に急いで工事してもらう。3帖部屋の1台くらいすぐに終了かと思ったら、9時から夕方6時までの、まるまる1日の作業。

 それにしても、人間の体もそうだが、建物も、古くなるに連れて、補修や修繕が増えてきてたいへん。もう今年度は、これのあたりでご勘弁ねがわないと、予備費では賄いきれず、たいへんだなー。まだ年度始まって、2ケ月なのに…。こんな建物を持ったがために、作っていく罪ではありますが…。

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くりぼっち

 世間は、イブだけど、我が家は、子供の頃からクリスマスずっと関係ない。ましてや、今年は、母親に連れられて、子供たちはアメリカ留学中で、ぼくはひとりぼっち。これを、「くりぼっち」っていうだって(クリスマスにひとりぼっち)。なんか、だいだらぼっち、みたいだけど、今日初めて知りました。NHKの9時のニュースで、盛んに、クリスマスをひとりで過ごす人の方が多い、「ひとりはあなただけじゃない」の特集。最後に、美人女性キャスターにまで、「わたしも家に帰ったら、クリボッチです」ってコメントさせてたけど、妙な親切というか、大きなお世話というのか。

 翌日は、アメリカの子どもたちとスカイプ。いつものは日本の昼1時で、サンフランシスコは、前日の夜の8時。ちょっとだけ遅らせてはなしたがけど、学校もクリスマス休暇中で、寮もがらーんとしていたけど、仏教徒でも、行事としてのクリスマスはあって、生まれて初めての飾りつけたらしい。そして、近所の教会にもいったそうで、とてもきれいな賛美歌に、やたら感激。まあ、郷いれば郷に従えで、何事も貴重な体験。

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今年最後の法座

 今年最後の法座は、華光誌輪読法座。例年なら、この日がM家での京都支部法座と決まっていて、輪読法座はそれ以降にあるが、今年は、順序が入れ替わった。

 大遠忌法座の記念講演会に出講くださった信楽先生他、3名の先生方の記事。皆さんの反応は、他にもあったが、ぼくには、華光で信楽先生の立場の話を聞くのは、いろいろな意味で興味深い。誰かが、「これは大遠忌の時と違う内容ですね」と言われたが、そんなことはない。ほぼこの内容に添った講演だったとぼくは思ったが、表現や情的な味わいなど、ずっーと講演会の話しは、皆さん親しみがあったようだ。

 ただ、その反応はさまざまだ。1)いつも華光の法話のようだったという方。2)その違いに気付いて批判的に受け取った方。たとえば、覚如、蓮如上人への二元論批判や、称名の勧め、または無明の取り扱いなど。3)違いに気付きつつも、その背景を理解して、自分の聞法の糧へと転じていった方。4)そんなことはどうでもいい。ただ拝聴するだけ。という方などがあったようだ。

 やはり違いはある。先生に対して違和感や批判的に感じられた方の聴き方は、むしろ、華光でもしっかりご聴聞ができている方だろう。しかし、ここが、念仏往生の法然聖人をよき人と仰ぐ親鸞聖人の流れと、その親鸞聖人を開山として仰ぐ、教団を背負う覚如、蓮如上人の直接の流れは、真宗の二大潮流であって、ある意味では、浄土教の二大潮流にも通じるものがある。その点を、しっかり踏まえていくと、違いを単なる批判や自分たちを過剰な評価に留まらずに、学ぶ点も多くある。特に、名号→信心→称名(その底には願力)という名号の独用か、称名→聞名→信心と展開する信楽師の実践的な信心理解をどう捉えるの。また、最後にでた、念仏者の「徴」について、どう味わうのか…。違いを通じて、華光の流れをハッキリと聞かせていただく好機なのかもしれない。

 若手の僧侶から、行信に絞った話し合いの法座の提案があった。来年2月もに実現の予定で調整中だ。 

 今日は法座のあとも、胸の始末にかかって不審を訴え方とのご示談。前のご法座では、自力の心に見切りをつけて、他力を頼むことをお聞かせに預かることに”決定”しながら、やはりなかなかしぶとい自力執心に泣いておられる。心境を聞けば聞くほど、ゴミ漁りをし、その心に響かそう一心不乱だが、まったく動かない心を歎き続けておられる。でも、実は、その虚仮不実そのもの、無明そのものを相手する心こそが、他力(本願)を頼まない、自力の正体なのだろう。こちらが、一緒にそのお心につきあして、どうこうしようとしても埒は明かない。相手の心境にかかわらず、ただ諄々と、倦むことなく、阿弥陀様の願いを、しかも具体的にお伝えしていくしかない。

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大掃除

 この時期の恒例になっている、華光会館の大掃除がある。といっても、数年前までは、仏青の有志が集まり、1日かけて行なっていたが、ここ数年は、皆さんの都合に合わせて、分散させている。顔ぶれも、仏青だけ足りず、京都や大阪同人にも助っ人に頼むようにしている。

 大掃除というより、正月、報恩講を前にした清掃と、日頃はなかなか手が届かないような、空調機や外壁や窓、廊下の滑り止めなどの細々したことが主だ。

 今日は、京都のOさん、大阪のKさん、そして奈良のMさんが、お手伝いくださる。夜勤あけに手伝ってくださる方もあった。遠方からもご苦労さまでした。

 来週は、仏青の数名で、仏壇、1階の外回りなどの掃除。少人数だが、この方が、効率よく動いてもらえるようだ。地道な仕事を、皆さん快く引き受けてくださっているのが、有り難い。修正会の準備は、これからだ。ここはぼくが担当するが、いま、華光誌や法座案内発行に向けての事務仕事が先決だ。特に、第2回の法話大会チラシ作りのために、原稿(コメント)の依頼をしている。なかなか意義深い人選になったと、我ながら喜んでいる。こちらは、26日に発送する華光誌の同封の予定だ。

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師走の東海支部法座

 久しぶりの東海支部法座。寒い時期は、ぽくの担当だ。12月に入って、寒い日が続いていたが、ここ数日は、少し寒さも和らいで穏やか。といっても、また次ぎの寒波がやってくるのだろう。

 テーマは、広島法座や高山法座で行なった少人数での話し合い法座である。3つの問いに対して、皆さんの活発な意見を、協力しながら話し合ってもらうというものだ。かなり、参加者の動きにも左右されるので、まったく同じ内容でないが、主な点は重複するので、先月の広島法座の記事を読んでもらえればと思う。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-90c2.html

 最近、信仰座談会の課題を考えることがある。どうしても深刻な顔になるし、態度にしても硬くなる。当然、黙り込む人も増えるし、指名されないとなかなか口を開けないのに、無理な指名にシドロモドロということも多い。賑やかなのは、一方的なお勧め側という座談で終わることもある。もちろん、気楽な雑談や噂話をしているわけではない。自分自身が問われる場であり、私の後生の解決の場なのだから、口が重くなるもの当然といえば、当然ではある。しかし、それにしてもと思うのだ。
 せっかく、阿弥陀様のお徳を讃える場であり、南無阿弥陀仏に出会った慶びを語る場でもあるのならば、もっと楽しく、笑顔とお念仏の溢れる場あっていいような気がする。お勧めにしても、ワンパターンのように、大声を出さなくても、強引に迫らなくても、また感情的になったり、教義の理詰めでなくても、阿弥陀様のお慈悲をお伝えることはできるのではないか。

 第一、法座の時だから、真剣に、又は真面目な顔で深刻ぶっても、日常の私はどうなのだろうか。煩悩具足の、自己中心の塊で、自己保全を第一に生きている。それが、法座の時で、「後生だ、信心だ、罪悪だ」と深刻ぶっても、そんなところに阿弥陀様のご本願はかかってはいない。むしろ、仏とも、法ともなく、自分が正しい、間違っていないと正当化し、人を批判して自惚れている私こそが、阿弥陀様のお目当てであり、願われて姿なのである。実は、そのことを教えていただくのが、法座の場なのであり、そんな自分に出会っていくのが座談の場だとするならば、よそ行きのなれない言葉で舌を噛む前に、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と褒めたたえるしかないのだけどね。

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年内発行のタイムリミット

 今日が、年内発行のタイムリミットだ。ぎりぎりになったが、華光誌を印刷所に渡すことができた。

 例によって、綱渡りの編集作業であるが、法座と法座の合間に、事務方だけでやっているのだから、これは致し方ないところだ。

ぼくも今週は、映画を封印して、華光誌の編集作業に専念。

 大遠忌の感想集である。森氏の講演会、信楽先生の講演会、求道と伝道の夕べ、大遠忌法要、または米寿祝賀会と、異なる角度からの声が集まっている。それも、参加者としてだけでなく、世話役の角度からの声もあったり、初参加者の疑問の声があったりと、さまざまな視点からの力作が集まっている。前回休んだ信仰体験記は、従来どおりの連載が続き、新連載も始まる。

 特に、今回は、初めての先生に巻頭言をお願いした。固辞されていたが、なんとか引き受けていただいた。一見、これまでの巻頭言とは異なり、個人的な問題のようにも見えた。しかし、その滋味深い文体と、その視点は魅力的で、最後は、しみ込むように入ってきて、思わず涙が浮かんできた。「親を求めて止まぬ業魂」と名付けさせてもらったが、幼き子も、そして私も、その重さの本質こそが、親を求めて止まない業魂なのではないかというのだ。その重さこそが、迷いの深さであり、長さだったのかもしれない。

 ただ、ぼくは、この5日間は、年賀広告の記事作りを中心にしていた。ここだけは、相変わらず、版下作りから、ぼくの担当になっている。例年と異なる枠組みだったり、聞法旅行やシルクロードの旅のお誘いもいれたので、例年よりも、多少時間がかかった。連日、深夜まで、事務所のスタッフも頑張ってくれた。最後は、T君も事務所に泊り込んでの作業である。

 事務作業は順調だったが、他に予期せぬ問題で、作業も一時中断。こればかりは、仕方ないことだが、例年、華光誌に同封している「年間行事表」を、今回は、残念することになった。できれば、1月の同人会ニュースに同封できればと思っている。

 とにかく渡しが終わった。ホッとする安堵感もだが、けっこう疲労感が大きかった。

 明日は、東海支部法座である。

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雪の高山支部報恩講

Img_3034_2   今年は、冬の訪れが早い。

 12月に入ってばかりなのに、寒い日が続いている。週末の高山も2日間共に、雪が降り続いてた。窓の外も、すっかり雪景色である。17年前に、初めて、この地を訪れた時も、大雪だったが、今回も大雪警報がでている。それでImg_3039も、北国の方にとっては、なんでもないことのようだ。平気で車を運転し、夜でも外出される。

 支部の報恩講である。雪を褥に石枕ではないが、比叡山といい、越後といい、親鸞聖人は、寒さや雪にもご縁のある方のようだ。

 さて今回は、少し違ったテーマをもってきた。法話の内容はそれぞれ異なるのだが、その都度、全員で歌ったり、お念仏を称えたり、少人数の活発な話し合いグルーブで作ったり、「みんなで声を出し合う」という体験をしてもらうことした。法話を、ただ黙って聞くだけなら、自分の思考をグルグルと回すだけで、頭でっかちの聴聞で終わってしまう。 大j遠忌法要や大会の分級座談会で感じたことだか、たとえ、法話はなくても、ただ同じように声を出しあって勤行をしたり、高声念仏を共に称えてもらう。一人一人は小さなお念仏の声であっても、それて二人、三人、…と増えるごとに、何重にも共鳴しあう響きは、私の小さな理屈の枠を超えて、広大な世界へといざなうことが、しばしば起こる体験をさせてもらっているのだ。

 今回は、報恩講ということで、夜座は、みんなでお正信偈のお勤め。朝座は、座談会の意義と、3つのテーマについて、5~6名のグループで活発に話し合う法座、そして昼座は、伊藤康善先生の「大悲の呼び声」を、若き日の日高支部の皆さんのテープに合わせて歌わせてもらうことにした。

 朝座の終わり。小人数の人のグループごとに輪になった人と手をつなぎ、横の人、前の人をゆっくりと、お互い眺めていく。それが、すでに、相手がそこにいることを認めていることでもある。そして、お互いを眺めながら、「前にいる人は、仏様に願われいてる人、横にいる人も、仏様に願われいてる人、この私も仏様に願われているもの」いう思いで、眺めてもらうと、そこには、ただ涙とお念仏しかない。仏法を慶ぶ人も、仏法を謗る人も、縁あって一緒に聴聞する人も、また離れざるえないご因縁の人も、また阿弥陀さまに願われている人なのである。そうすると、人間(私)の思いなんて、ほんとうにちっぽけなもんだよなー。南無阿弥陀仏

 最後のご示談も、この思いで接すると、笑顔でのお取り付きとなった。全体で輪になって、お手つなぎならが、お念仏を手渡していく。どこから始まったのか、どんどんお念仏の輪が広がる。グズグズ理屈を言う人も、真剣にお勧めする人も、すべて阿弥陀様に願われている凡夫、みな、お念仏でつながっていることを、目にもの見せて教えてくださる。お念仏の圧倒的な真実の前には、無理もせず、強くお勧めしなくても、自然と、新しい菩薩が生まれてくるのである。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。ぼくの思いなど、とうに超えたところでの尊いご縁となった。

 それにしても、昨晩は、いろいろと募る(というより詰まる)話もあって気付けば、朝4時まで話し込んでいたが、不思議と元気で、積極的に動きてよかった。お世話になりました。

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無料で愚痴聞きます

 1年半ほど前から、松江市のカウンセラーに定期的にお世話になっている。離れているが便利なもので、スカイプで相談すると通話料は無料だし、不鮮明のPC画面とはいえ、対面的に話すこともできる。

 しばらく休んではいたが、また先月から再開。今月のカウンセリングをお願いしたら、ちょうど龍大で学会発表があるので、その時に飲みましょうとのお誘いを受けた。

 七条通りの暗い路地にあるリド飲食街の、いつものお店で飲む。二人で、飲むのは始めてのことだ。場所柄、カウンセリングとはいかないが、それなりに話も聞いてもらったり、ぼくの上に起っていることの率直な感想も聞けた。発達障碍への理解と対応、問題点などの話題が面白かった。確かに、発達障碍、もしくはその傾向がある大人の方への心構えができていると、ずいぶん、こちらが無駄なエネルギーを使わずにすむかもしれないなー。これは、今後のぼくの課題にもなりそうだ。その他にも示唆に富んだお話で、エネルギーをもらって元気になったが、カウンセリングではないので、御勘定は割り勘としてくださった。申し訳ないけれど、お言葉に甘えた。

 先生と分かれて、京都タワー前の交差点で、信号待ち。横に、面白いプラカードーをもった一団が座っているのを発見した

Img_3028 「グチバンク、無料で愚痴聞きます」。

 寒空の下、2組ほど若い女の子が座って話を聞いてもらっている。

 うん、新手の新興宗教か?、それともNPOか? よく分からないが、とにかく面白いアイディだと感心して見ていたら、目が合った。

 「どうですか?」と勧められたが、たったいま、一流カウンセラーに話を聞いてもらったばかりだ。たぶん、傾聴的な聴き方をしてくれるのだろうけれど、守秘義務がどうなのかが分からない。名前が出さなくても、事例を、ブログやツイッターで面白おかしく書かれたり、批判されてはたまらないもの。要は、信頼感の問題。有料カウンセリングは、守秘義務のためにお金を払っているようなものだ。だから、優秀なカウンセラーほど、前の話を忘れて聞いてくださる。それに囚われない力があるからだろう。その点、素人は、重い話に巻き込まれて、反応してしまう。もし本人がそれに気付く力がない場合は、かなり困りものだ。

 もっとも、今夜は無料の割り勘で、ずいぶん得をしたなーと思いつつ、「顔は撮らないけれど、写真はいい?ブログに書くよ」というと、あっさりOKし、見事ブログのネタになった。

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海外も、国内も、

  師走は、やはり忙しい。

 新年号の華光誌の〆切日が限定されることもあるが、もうひとつ「年賀広告」を作製する作業が加わる。さらに今年は、「大遠忌法要」のご喜捨の皆様への記念品を配布や、大遠忌の後事業(DVDや記念出版)の打ち合わせあって、仕事量が増えている。

 この時期は、新年号に合わせて、来年の事業(法座)の計画や日時の連絡も合わせて行なっている。

 まずは、6月末~7月に計画した「中国の敦煌~シルクロードの旅」。インドでもお世話になったサライの添乗員と打ち合わせ。コースでいろいろと迷っている。話が、少し長引いていたら、9月の聞法旅行(三河の旧跡)の同朋観光の方と、事務所で鉢合わせをされた。同業者、しかも、客層(寺院中心)とほぼ重なる。同じ得意先もあるようだ。しかし、うまく棲み分けができている。前回のインド旅行の時に、同朋さんに相談して、サライさんを紹介してもらったのである。同業者のようで、国内聖跡旅行専門と、海外の仏跡旅行専門という棲み分けがあるので、仲良く名刺交換されていた。寺院専門の旅行という、ニッチというのか、専門性の高い旅行社に、今回もお世話になる。

 来年の新運営委員長になられるRさんにも同席してもらって、その後、新体制の指針となる案を検討。これまでにないタイプの委員長さんに、期待も大きい。

 夜には、3月の法話大会の講師陣に出講や情報提供をもらって、人選を進める。おかげで、予定していた華光誌の編集は、進まず。焦り気味だが、なんとかするかしない。

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願寿寺布教

Img_2984_2  ここ数年、この時期は、寺院布教にお招きいただているが、今年は、ことのほか寒かった。でも、天気は快晴。まだ残っている紅葉が、青空に映えて見事だ。こちらは、親鸞さまではなく、Img_2985蓮如さま。

 4座の法座があったが、参加の顔ぶれが変わる。永代経の「法要」が目的という方も、随分おられる。もし通して、聞いてもらったら、もう少し深まるかもしれないが、なかなかそうはいかない。

 それで、今回は、どの席でも、冒頭は、聞法の意Img_2987義、お寺の意味について話すところから始また。家で、テレビを観たり、知識が身につく講演を聴くのとは違うのである。お寺は、ご聴聞の場所。ここは、仏様のお話を聞くところ。中央に立って呼んでくださる阿弥陀様という仏様の願いを聞かせていただいて、私が、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏申させていただく場であるということを、丁寧にお伝えしていくしかない。

 ちょうど、ご本尊と須弥壇の修復が終わったところで、黄金色に輝いていた。

 今回は、一方的な法話ではなく、50分ほどだが、車座になって、信仰座談会もあった。それ以外の法座も、聞法ワークを織りまぜて、後席は、皆さんの声を聞かせてもらう時間にした。何度か、ぼくのご縁を結んでくださっている方から、「先生のお話は難しいので、お参りしようかと迷った」とか、Img_3024「座談会があるのが苦手だ」といった声を聞かせてもらえるだけでも、有り難い。

 そのほとんどが、今生的な話題ではあるが、そんなところから、少しずつ、信仰に対する疑問や味わいも混じってくるからおもしろい。まずは、勇気を出して、参加いただく。声に出して、何かを話してみる。こちらも、温かく、どんな内容でも受容的に聞いていくことに勤めたら、ご満座での「阿弥陀様からの手紙」という聞法ワークでは、強制しImg_3025ていないのに、7割以上の参詣者が、声に出して発表してくださった。加えて、ご住職のご家族全員(住職夫妻に、前住夫妻に、子供さんまで)が、いまの阿弥陀様との接点や味わいを述べてくださる。

 まずは多くの声がでてきたことが有り難かというレベルである。その意味では、改めて、華光の座談会、その場にお参りされる方のすごさを感じると同時に、逆に、華光の法座でも、もう少し丁寧な進行の必要性も感じさせられた。華光の法座で、発言があったことだけで、慶ぶことはないものね。

 最後のごあいさつで、「あの手、この手のご方便のおかけで…」と、住職が涙で詰まられた姿が尊かった。

 法座に出ることから教えられ、育てられ、聞きっぱなしではなく、声に出すことや、自分のこととして聴くことや、さらに後生の一大事や、信心獲得ということも一々教えてもらい、さらには、日頃の味わいにまで、仏法が身に沁みて現れて来るところまで、お育てをいただいているのである。いま、どんなに偉そうなことを言ってみても、そのすべてがいただきものであり、お他力の働きである。そのお育てでないものは、なにひとつもない。口をいただき、声をいただき、言葉をいただき、批判や批評をする目や口をいただき、そして「南無阿弥陀仏」と称えさせていただくまでのお育てをいただいたのだ。その並々ならぬ種々のご方便に、ただ「南無阿弥陀仏」

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『北のカナリアたち』

  『北のカナリアたち』は、吉永小百合が主演の北海道の離島という僻地の小さな分校を舞台にしたもの。女優と、設定を考えたら、「二十四の瞳」のようなヒューマニズム溢れる温かな雰囲気を予感。最初はパスの予定だったけど、友人の「泣けたよ」との評判を聞いて、観る映画に仕分け。

 それが、不倫や殺人をベースにしたサスペンス調の群像劇で、予想とは違った展開。でも違った意味で、泣けました。さすがに、「あなたへ」の高倉健といい、この吉永小百合といい、配役の年齢設定には少々無理があるけどね。でも、物語はしっかりしていて、面白かった。一つの殺人事件をきっかけに、平和な僻地の分校でおこった過去の悲劇の事件が、それぞれの立場で明かになっていく。事件は、それぞれの人物のその後の人生に、罪悪感となり、トラウマとなり、深い影と葛藤を落としていく。心理描写もしっかりしたサスペンスとミステリアーな部分の謎解きが、表面的な善悪ではわからなかった、個々人の闇や苦しみと結びつき、最後には、解きほぐされて結びついていく展開が見事。定年退職した先生が、成人した教え子を一人一人と会っていくというくだりも、最後の伏線になって効いているのかなーと。

  北海道の離島、広大な自然の風景と、いろいろな科白で泣いちゃいました。湊かなえの原作で、ラストで阪本順治監督のクレジットをみて、納得。

 あいかわらず、マイナーな外国映画が中心だけれども、たまに観るメジャーの日本映画も、なかなか力作揃いで。ほかにも、大阪の街を舞台にした男たらの金塊強奪計画を、粗い画質そのままの、荒っぽさがよかった井筒和幸監督の『黄金を抱いて翔べ』、そして周防正行監督が、恋に傷つき絶望した女医(草刈民代)と、重度のぜんそく患者(役所広司)との深い絆から、医療行為か、故意の殺人かを巡る、辣腕検察官(大沢たかお)とのやりとりもスリリング、かつ命の尊厳を考えさせられた『終の信託』あたりも、面白かった。

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