ここ数年、この時期は、寺院布教にお招きいただているが、今年は、ことのほか寒かった。でも、天気は快晴。まだ残っている紅葉が、青空に映えて見事だ。こちらは、親鸞さまではなく、
蓮如さま。
4座の法座があったが、参加の顔ぶれが変わる。永代経の「法要」が目的という方も、随分おられる。もし通して、聞いてもらったら、もう少し深まるかもしれないが、なかなかそうはいかない。
それで、今回は、どの席でも、冒頭は、聞法の意
義、お寺の意味について話すところから始また。家で、テレビを観たり、知識が身につく講演を聴くのとは違うのである。お寺は、ご聴聞の場所。ここは、仏様のお話を聞くところ。中央に立って呼んでくださる阿弥陀様という仏様の願いを聞かせていただいて、私が、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏申させていただく場であるということを、丁寧にお伝えしていくしかない。
ちょうど、ご本尊と須弥壇の修復が終わったところで、黄金色に輝いていた。
今回は、一方的な法話ではなく、50分ほどだが、車座になって、信仰座談会もあった。それ以外の法座も、聞法ワークを織りまぜて、後席は、皆さんの声を聞かせてもらう時間にした。何度か、ぼくのご縁を結んでくださっている方から、「先生のお話は難しいので、お参りしようかと迷った」とか、
「座談会があるのが苦手だ」といった声を聞かせてもらえるだけでも、有り難い。
そのほとんどが、今生的な話題ではあるが、そんなところから、少しずつ、信仰に対する疑問や味わいも混じってくるからおもしろい。まずは、勇気を出して、参加いただく。声に出して、何かを話してみる。こちらも、温かく、どんな内容でも受容的に聞いていくことに勤めたら、ご満座での「阿弥陀様からの手紙」という聞法ワークでは、強制し
ていないのに、7割以上の参詣者が、声に出して発表してくださった。加えて、ご住職のご家族全員(住職夫妻に、前住夫妻に、子供さんまで)が、いまの阿弥陀様との接点や味わいを述べてくださる。
まずは多くの声がでてきたことが有り難かというレベルである。その意味では、改めて、華光の座談会、その場にお参りされる方のすごさを感じると同時に、逆に、華光の法座でも、もう少し丁寧な進行の必要性も感じさせられた。華光の法座で、発言があったことだけで、慶ぶことはないものね。
最後のごあいさつで、「あの手、この手のご方便のおかけで…」と、住職が涙で詰まられた姿が尊かった。
法座に出ることから教えられ、育てられ、聞きっぱなしではなく、声に出すことや、自分のこととして聴くことや、さらに後生の一大事や、信心獲得ということも一々教えてもらい、さらには、日頃の味わいにまで、仏法が身に沁みて現れて来るところまで、お育てをいただいているのである。いま、どんなに偉そうなことを言ってみても、そのすべてがいただきものであり、お他力の働きである。そのお育てでないものは、なにひとつもない。口をいただき、声をいただき、言葉をいただき、批判や批評をする目や口をいただき、そして「南無阿弥陀仏」と称えさせていただくまでのお育てをいただいたのだ。その並々ならぬ種々のご方便に、ただ「南無阿弥陀仏」