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無明長夜の灯炬なり

 11月の輪読法座。病気で体調を崩れたり、入院があたりで、常連に欠席が目立った。しかも、始まる前には、かなりの強い雨が降って、荒れ模様。それでも、地元の京都よりも、大阪、奈良、兵庫、そして名古屋などからの参加者が集ってくださった。

 華光誌の輪読は、「大遠忌特別号」である。いつのような巻頭言や法話も、体験記もない。それで3回に渡って、各月、講師陣の法話(エッセイ)を4名ずつ読む進めることにしている。

 最後に、M先生の記事を読む。苦悩するわが身をさらけ出して、「逆謗の死骸」(五逆・法謗の死骸)にかかるお救いを伝えてくだている。

 …逆謗の死骸と見抜き切った仏智故に、臨終一念のまで、摂取の光明におさめとってお護り下さるのである。まことに不可称不可説不可思議の本願力、広大無辺の南無阿弥陀仏の大慈悲心であり、「無明長夜の灯炬なり」である。この灯し火が、この私の胸に灯してもらえなければ、未来永劫(ようごう)、生死勤苦(ごんく)を絶え間なく続けていくのである。…

 「無明長夜の灯炬なり」という言葉を味わって、今回の法座を結んだ。正像末和讃には、

無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ (正像末和讃)

とある。阿弥陀さまの御本願こそが、無明の暗闇の長夜を、常に照らす(灯)、大きな灯火(炬)である。だから私の智慧の眼が暗いことを悲しむことはない。また、迷いの大海を渡す船であり筏である。だから私の罪障が重いといって歎くことはない、という意味だ。

 阿弥陀様の広大な御本願を、「無明長夜の灯炬」「生死大海の船筏」に譬えておられるのだが、しかも、そこに「なり」=「也」をつけて、2度も断定的に力強く結んでおれらるのだ。

 私の機の愚かさを歎く暇などない。まさに、阿弥陀様の御本願だけが、私の闇を唯一常に照らし続ける灯火を灯していただこう。そして、我が罪の深いことを嘆き、悪しき心を省みる暇などない。生死の迷いの大海を渡してくださる唯一の船筏に乗託させてもらうのである。

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