広島支部法座~少人数の協力~
今回の広島支部法座は、いつも法話、全体座談というパターンを変えて、6人組のグループに分かれて、みんなが分担(司会役も変わる)し、協力しながら、頭から否定しないで、活発に話し合うバス・セッション風の形をとった。
まだご縁の浅い参加者もあったので、華光での信仰座談会の意義を、蓮如様が、「仏法は讃嘆談合に極まる」と言われ、なぜ、「ものをいえ、いえ」と促され、さいさいに話し合い(談合)を勧められたのか、また、華光でのその意義と、法の勧め方についての誤解などについて、体験的な例を交えながら聞いてもらった。
その上で、最近、ぼくの上で起ってきた身近な話題をとおして、3つの課題を話し合ってもらった。
要は、ある教えでは「万教帰一」というけれど、なぜ、浄土真宗だけで、かも弥陀一仏なのか。それは、逆に偏狭ではないか。にも、かかわらずそう言い切れるのはなぜか。
また、わたしは、修行も、徳も積まない、善も行なわない、戒律も保たない、感謝の日暮らしも、先祖供養もしない、それでも、仏道を歩んでいる言い切れのは何故か。わたしの「徴(しるし)」はどこにあるのか。
そして、「すべての人を平等に救うというお慈悲な阿弥陀様だから、死んだらすべての人が、浄土に生まれ仏になれるのではないか」。あるお寺では、門徒の大半が、「そのとおりだ」と言われたが、皆さん、どう思われるか、との問いを出した。
いつもの大人数での、自由な座談会では、なかなか口が開けない方も、かなり積極的に発言されて、おもわず時間オーバー。各グループの意見を聞きながら、親鸞様のお言葉や、ぼくなりの味わいを話したが、ただ一方的に聞くだけでなく、一度、自分の問題として考えてくださっている分、しみってはいっていった気がした。
最後の分かち合いでも、まず、問い自体から、もう一度説明して理解してもらう作業が必要だったり、頭から、分かっていると思うことでも、自分の口に出してみれば、うまく表現できないということは、実は分かってつもりでいただけだったのだという声も聞かれた。ご縁の浅い方も、積極的に参加できたようで、かなり手応えは強かった。
ほんとうは、こんな形で、ひごろの座談会も活発だったらいいのだけれど、ここはもう一山越えねばならないところがある。
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