大遠忌法要のご講師のお一人森達也氏の映画、『311』が京都シネマで上映された。映画館に、大遠忌の案内チラシを置いてもらいに行くと、受付の若いスタッフは森さんのことこを知らなかった。でも、ここでちゃっんと上映されているぞ。顔見知りのスタッフに一言その話をしたら、「申し訳なかったです」と謝っておられた。
そんなことはどうもいい。とにかく、ぼくには面白い映画だった。正確には、森達也・綿井健陽・松林要樹・安岡卓治4氏が共同監督を勤めている。『311』に先立って、松林監督の『相馬看花』を見ている。地震や津波の自然災害の影響はないのに、原発事故で土地を奪われた被災者に密着したドキュメンタリーだった。
それに比べると、本作は、映画作製の意図のないまま、大震災から2週間後、原発事故の規制地と、津波の被害地を、アボなしで、とにかく行ける現地に入っておこうというような、行き当たりばったりの非構成的な作品となっている。だから、何が起こるか分からないとゆう緊張感が常に漂い、このアドリブ感のゆえに、共に被災地を歩いているかのような錯覚を起こさせるロードムービーに仕上がっている。BGMも特に流れないし、洗練されたきれいごとの映画とは明かに一線を画している。かなり粗削りなのだが、それゆえにか、ドキドキ、ハラハラするようなビビットなシーン(特にラスト)が映し出される。
最初は、原発被害地へと、とりあえずという感じで向かう一行。放射性物質は目に見えない。たよりは、古ぼけた放射能検知器のみ。福島に近づき、福島原発に近づくにつれて、線量を示す数値は上がり、計測音が常に成り続けている。BGMは特にないといったが、このうっとおしいまでの警戒音が、ますます緊迫感や不気味を煽っていく。そして、一行は、急ごしらえ防御服体制を整え、出来る限り原発に近づこうとするのだが、準備不足で、中途半端なまま、福島での撮影を残念する。映像も、車の窓ガラス越しのものが多い。が、時にくすんだ、また雨垂れに曇った窓の外には、地震や津波の被害をうけず無事であるのにもかかわらず、ゴーストタウン化している街が映し出され、ますます不気味さ、裏寂しさを増幅させるかのようだった。
福島を諦めた一行は、途中で、情報蒐集やインタビューをしながら、津波の被害地へと向かう。そこには、延々と続く津波の瓦礫の山。車内からの横移動撮影で見せてゆくカットに、威力のすさまじざを知らされた。これまでも、テレビ報道番組で見慣れた既視感のある映像ようで、俯瞰的なヘリ映像とは、まったく違っているから不思議だ。そして、跡形もない大きな被害を受けながら、ここには人の姿がある。自衛隊や消防の救助をする人々だ。
ここでの森のインタビューは、ある意味意地悪だ。緊急医療にあたった医者、行方不明者を捜索中の自衛隊や関係者などへ、苦労話や英雄的行為への賛辞ではなく、悲惨な現場での救援活動の限界、人間の慈悲の限界についての葛藤を引き出そうとしている。
避難所の様子もニュース報道とは違った角度。また遺体安置所へも向かうが、すでに他所へ搬送されたあとだった。そしてこの映画の肝といってもいい、大震災の被害の象徴的する大川小学校の被災者の捜索現場へと向かう。ここからの緊迫感は、半端ではない。
行方不明の子供捜索中の母親に近づく。親として、グランドに集合した子供を迎えにいけなかった無念さから自己を責め、重機の必要性を訴えても、「悲しみの被害者」というレッテルでのみの一方的な報道で、ほんとうの声が届かないいらだち、何よりも、学校や地域の不手際を責めても、帰ってこない子どもの現実。そんな行き場のない悲しみ、そして怒りの感情で、子ども探す棒を地面に叩きつける母親。ここで、ぼくたちは、どんな言葉を発すればいいのか。森は、「その怒りを私にぶつけてください。そのためにいます」という言葉を使う。うん、声のトーンに違和感あり。
さらに、発見された遺体を撮影している。常識的には無神経な行為だ。捜索中の男性が、それを見つけて、「撮るな!」と、木を投げつける。それでも、カメラは回り続けている。そして、そこで発せられる森の言い訳と、やりとりの始終。被写体の被害者以上に、撮影側の戸惑いが、あきからになってくるようだ。
映画祭上映後、賛否両論の声が乱れ飛んだらしい。しかし、この賛否両論の声が飛ぶところにこそ、この映画の意図があるようにも思える。
個人的には、映画としての意図されなかったことを意図的に強調されるのも奇妙だ。意図されていないわりに、複数のカメラが用意されて、たとえば映像を写す森を、もう1台のカメラが狙っている。ともかく、これは被災地を通りすがりのように上澄みだけをすくって映し出すメディアと、それをいわばハリウッド映画を見る感覚でとらえ理解したと思っている観衆に対して、制作側が自身を被写体とすることで、この下には、「絆」というよなきれいごとですまない、ドロドロした人間の感情、生死の苦のあることの一端を示しているのではないか。だとすれば、まっとうに観るものは、きれいごとで抑えていた傍観者の感情が、たとえば賛否という形で、揺さぶられかねないドキュメンターなのである。