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親鸞聖人のご恩徳

 9月の広島支部法座。例年、9月は宿泊法座だったが、今年から通常の半日法座へ。

  先月の東京や高山同様、大遠忌を前に、親鸞聖人のご恩徳について、特に、その教義(教え)の上での発揮(つまりは、親鸞さまのご出生なければ、ハッキリしなかったこと)は何か。それは、親鸞さまでなければ明確にならなかったこというだけでなく、他の教えにはない、浄土真宗の独自性ということになる。その場合は、教義の点だけでく、真宗ならでは、宗風というのもある。家庭にはそれぞれに家庭の特色があって、それを家風というならば、浄土真宗にも、浄土真宗の家風があるのだ。

  正解をぼくが言っても始まらない。皆さんに時間をかけて答えてもらい、またぼくから問いを発して考えてもらうことを繰りえして進めていたった。正解を覚えていも、ちょっとひねられると、丸覚えだったら答えられない。逆に、用語が分からなくても、いわんとすることは分かったりしたが、いざとなると、皆さん、なかなか思いつかれない。ぼくとても最低限でも、この答えは出してほしいというものがある。たとえば、他力廻向とか、信心正因や悪人正機などのキーワードである。または、現生正定聚とか、往還二廻向というのもあるかもしれない。宗風となると、肉食妻帯とか、非僧非俗もそうだし、神祇不拝や、現世祈祷の否定、御同朋御同行の精神などもそうであろう。

  なかなか進まないので、ヒントトやキーワードを示する、苦戦をされながらも、黒板が一杯になってきた。でも、本題はこれからだ。さまざまな出された答えを検討していきくと、その発揮の大半は、すでに法然さまを始め、七高僧さま方の上で示されているものだということがハッキリしてきた。親鸞様独自といわれると、ほとんどが残らなくなっる。実は、そこがいちばん尊いところなのだ。決して、聖人は珍しい法を説かれたのではない。また、自ら新宗教を建て、開祖になられる思いは微塵もお持ちではない。あくまでも、先達、お師匠さまの法然さま始め、七高僧のみ教えを、唯信するのみだという態度で、終始一貫されている。それは、お正信偈一つをみても明かである。それで、今度は、さまざまな出された教義の特色を、七高僧の何方の発揮であったのか確認していった。

  もっとも、ある人が、「念仏一つで仏に成る」といわれたら、他の人が,「信心一つ、つまり信心正因」といわれた。これはどういうことか。ある支部では、そこから「五願開示」という言葉がでた。うん、これは明かに聖人の七高僧のご指南による発揮だろう。華光同人は、一願建立と五願開示、法然聖人と、親鸞聖人の立場の違いについて、伊藤康善先生からご教示いただいている。そして、伊藤先生からは、  音声廻向の、本願招喚の勅命を聞く一つで救われる教えだというお示しを、華光同人は頂いているのである。

  結局、聖人は、七高僧さまの発揮を集大成されたのであるか、それは決して、教義の上に留まらず、そのみ教えをいただくのは誰なのかと、自ら、流罪人となり、非僧非俗として愚禿と名乗り、肉食妻帯の姿を示してくださったのだ。つまり、本願の、他力廻向のお目当てが、煩悩具足の泥凡夫の私にあることを、身をかけてお教えくださったのである。悪人のまま、凡夫のまま、現生正定聚のくらいに住し、滅後には、最高の弥陀同体の仏となって、還相廻向の身となることも、聖人のご出世と、そのお命をかけた歩みがなければ、絶対に、この私には伝わらなかったということである。

 深い深いご恩徳があるのである。南無阿弥陀仏

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