奈良県生駒市での、大阪支部法座。大遠忌の前に、念のために日程をあけていたが、都合でぼくが出講することになった。
前席は、例によって、親鸞聖人のご出世の意義、なぜ、私達が大恩を受けているのかを、教義うえの発揮に絞って、皆さんに、時間をかけて尋ねていった。そのことで、真宗の教義のまとめであると同時に、聖人ご出世のご恩徳を明かになってくる。それは、聖人が独自の見解を声高に叫ばれるのではなくな、あくまでも、法然聖人を始め、七高僧方の発揮を讃えておられる姿勢、つまり「唯可信斯高僧説」であると同時に、その集大成と自ら身をかけて、本願をお目当ての姿を示してくださったのである。
後席では、ますます聖人のご法に対する姿勢に触れるほどに、連続無窮の南無阿弥陀仏のお働きの尊さについて味わった。これは、最近よく味わっていることであるが、「連続無窮の生きたお働き」という「生きている」ということである。
鈴木大拙博士は「リビング・ブッディズム」、つまり「生きている仏教」と言われた。遺跡でも、制度でも、過去の遺産としての仏教でもなく、今、ここに躍動して生きているというのである。
では、どこに、生きた仏教が躍動しているのか。いうまでもないが、決して、セクトとしての浄土真宗や「華光会」という組織の中ではない。仏法の繁盛とは、人が大勢集い、組織が大きくなることではないからだ。たった一人でもいい。この私の生死の命の上に、阿弥陀様の命が「南無阿弥陀仏」として躍動し、働き続きてくださるところに、仏法はいきいきと繁盛しているのである。
「生きている」とか、「生きて働く」とい言葉を、法話や座談でよく使う。ほんとうに、ある人を通して、躍動する南無阿弥陀仏の働きをまのあたりにするからだ。
しかしである。もし「生きている」というのなら、鮮度が落ちることはないのか。病や老に悩まされたり、何より死を免れることはできないのではないか。本来、それが「生きている」ということだ。生き死に、生き死にを繰り返すことが無常であり、迷い(生死)というのではないか。
もちろん、阿弥陀様は、迷い=生死を超えた、「無量寿」の命をもったの御方だ。無量寿とは、決して、人間の願望である不老不死というような、欲望レベルの話ではない。生きとし生きるもの、迷いの命をすべてすくいとってやまない大慈悲の心の働きによって、その願いに貫き通された命が、絶え間なく生き続けるということである。
だからこそ、前に生まれた先達は後を導き、後に生まれた者のも前を訪ねて、無辺の生死海をすべて救い尽くすまで、絶えることなく連なり続いていくぞと言われたのだ。連続無窮にして働き続けようという真実の願心は、生きとし生きる一切衆生の「生死勤苦の本を抜かしめたまへ」という、法蔵菩薩の大悲心を根源として発起されたものである。その法蔵菩薩の涙の一雫が、宿業の身を抱えた私の身に触れた瞬間、一度も死んだことのなかった、私の迷いの自力疑心は死に絶えていく。そして、その刹那、生死の命を生きるこの身に、南無阿弥陀仏が飛び込み、生きて働き続けてくださるのである。罪業、宿業の滅びる身を抱えた私が、今、まさに、超える世界に踊りだしてもらうのだ。
なんという不思議であろう。虚仮不実の私の口から「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と、真実の無量寿が躍動して飛び出してくださる。「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」……お一人お一人の上に、真実の御声が満ち満ちてくださる。
これ以外に、今度の大遠忌法要の意義はないのではないか。南無阿弥陀仏