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「仰せ」を聴くばかり

 8月の輪読法座。平日にお昼だったが、それなりの参加者がある。

 K先生の「火事場の真っ最中」を、みんなで声に出して輪読して、分かち合ったり、感想や質問を出し合う。少し残念だと思うことは、せっかくの華光誌の誌上法話を素材にした輪読法座なのに、その文章をたいせつに味わったり、繰り返し読みながら、内容を吟味しあうというより、すぐに通常の法座のような我が胸の算段ばかりになって、そんな話題を巡ってのやリとりが多いことだ。どんなに短くても、また単純ものでもいいので、「この○○○のところをこう読んだ」とか、「○○○のところをもう少しみんなで味わいたい」といった声が、あまり聞こえないのが残念だ。

 今回のところでも、胸の変化や気づきばかりを追い求めて(いわば信心決定病)、本文にあった、胸の算段ばかりしないで、如来さまの「仰せ」をそのまま聴く、もしくは先輩同行や知識の言葉を、頭を垂れてお聞きしないと、「獲信、獲信」と必死になっても、結局は、自分にしっかりした、ハッキリした、何か確かな変化ばかりを求めるだけでは、いつまでも立っても如来様のお心は分からない。

 という内容の箇所を読んでいるのに、「どうしたら、どうしたら」とか、「仰せを黙って来ているが、実感がないのはどうしたか」などの発言ばかりが続くと、お育て、ご因縁とはいえ勿体ない気がした。

 競争に参加して、トラックを走りもしないで、優勝トロフィーが「ほしい、ほしい」と手を出してみても、絶対にもらえないのと同じである。

 ただ如来様の「仰せ」をお聞かせに預かるひとつなのであることを、重ねてお伝えするばかりだ。

 たった一言を聴くだけで、すべてが収まるみ教えなのである。

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