« 灯し火 | トップページ | 大遠忌法要(講演会)の会場 »

善い心・悪い心

Img_1617 8月の仏の子供大会の関係で、今日の日曜礼拝は、10時から午前のみ。法話の担当者が、大阪支部法座と重なっていたため、ぼくが担当した。法座が重なり、午前中だったこともあって、子供も大人も少なめだったのは、残念。

 今年の子供大会のテーマである「善い心・悪い心」をテーマに。人数は少なかったが、子供たちの反応はたいへん活発。問いに対して、次々と答えが返ってきて、こちらも面白くて乗ってきた。これは、単なる道徳や倫理の話ではないので、子供たち(たぶんImg_1618大人にも)難しいテーマだ。まずは「心」は置いておいて、「善い子、悪い子」の自己評価から始める。子供なりにも、社会や大人、親の道徳観や倫理観が備わっているのがおもしろい。親の言う事を聞かないから、自分は悪い子だというのは、小学生も大学生も同じ。そこから、それぞれが考える「善い事」と「悪い事」を列挙したが、この答えがすこぶるユニークで面白かった。

 しかしながら、それは、極重悪人をお目当ての阿弥陀様のお心とはほど遠いものである。たとえば、人殺しでも、正当防衛はどうか、職務ならどうか、防衛のための戦争ならどうか。実は、状況や時代,国によっても、法律か、道徳のレベルでも善悪の評価は変わる。つまりは、人間世界においては、善悪の末とおった基準などないのであって、末とおらないものに、真実はないといっていい。「善し・悪し」の世界で一喜一憂している私だが、その私は、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」なのである。

 ところが、下の子が、突然「仏様のお話をきくことが善いこと」と言い出した。逆にいうと、「仏様のお話聞かない=疑う」ことが悪となる。こうなると、基準は、仏法である。仏様(阿弥陀様)こそが、最高善であり、仏になることこそが善に向かっていく唯一の道なのである。

 もちろん、子供たちにはこんな難しいことは話さないが、単なる行動レベルではなく、「心」の問題について投げかけておいた。ほんとうは、宿業レベルまで問題にしないと、如来さまの大悲のお心には触れることはないのだろうが、単純(表面的)な賢善精進に留まる方がおられるのが気にかかる。

 午後からは、仏青例会。今回は、子供大会の法話担当の先生方の実演。不参加の方は、レジュメを読んで、法話を検討していったが、やはり、4回の法話を通してお聞かせに預かると、単なる子供向けにとは侮ることはできなかった。もう一工夫された本番が楽しみ。

|

« 灯し火 | トップページ | 大遠忌法要(講演会)の会場 »

法座と聞法」カテゴリの記事