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妙好人における死生観と超越

Img_1310  ご案内をいただいたご縁で、龍谷大学で菊藤明道博士の講演を聞く。妙好人もそうだが、「超越」というテーマに興味をもった。ところが、講演テーマは、「妙好人の死生観と願い-その言行から苦悩を超える道を学ぶ」に変わっていた。現役では第一人者といっていい先生の講演だが、一般の方も多くて、かなり総花的な話題で、詳細なレジュメ等を読ませてもらえば、十分である。

 それでも、講演は、押さえるところは押さえておられさすがの内容だったが、次ぎの点を重ねて強調されていたように思う。

 妙好人とは、真実信心の念仏者を阿弥陀仏が讃えられたのであって、決して言動や道徳的な人格者をさすものではない。妙好人と称讃される念仏者であっても、どこまでも「よしあし」に迷う凡夫であり、その身を通して本願の念仏を申し、喜ぶ身となられている。妙好人伝にある、泥棒等を喜んで品物を差し出すようなエピソードも、真実信心者が社会的な善人、人格者になることでも、また相手を、我善しの観点から上から目線で裁くのでもなく、「さるべき業縁催さばいかなる振る舞いもすべき身」としての同体の宿業観、さらに共に同じ本願念仏を仰ぐ大悲観を現れであること。

 なぜなら、本当の善、正しい行いは、凡夫の善や行ではなく、阿弥陀如来のお心のみであって、その本願の念仏が智慧となり、往生浄土から還相廻向の無限の利他の働きもまた、すべて阿弥陀如来の他力廻向の本願力によるものである。

 しかしながら、他力の念仏を喜ぶ姿は、必ず自然と外にあらわれてくる。社会的実践となり、自分ひとりに留めない念仏弘通のお働きとなってあらわれてくるという点も強調されていた。
 特に、今回の展示のテーマのひとつが、大震災とのかかわり(妙好人の災害時の寄付行為の礼状のコーナもあった)であったが、妙好人の生き方からを学ぶことで、「信頼や連帯感、安心感を取り戻し、共に支えあい生きるためには、真如より来生した阿弥陀如来の呼び声(本願の念仏)を聞いて生死を超え、苦悩を転じて豊かに『いのち』を生きた」妙好人から学びことが多いこと。妙好人から照射される光によって、これまでの生き方、思考の在り方を転換さて、未来に向けて新たな歩み行く道を照らしだされるということで、結論とされていた。

 これと関連することだが、けっこう知られたエピソードではあるが、鈴木大拙師によって、讃岐の庄松同行が紹介された時においてさえ、大派の碩学である金子大榮師や曽我量深師は、非常識的な言動、むしろ社会的には奇異にうつる行動をさして、「謀反人」「反逆者」「本当の妙好人ではない」「いま、あんな人がいれば困る」なとと批判している話題がでた。

 結局、外に現れた社会性、なかでも、道徳的、常識的な善悪の規範で評価されているのであって、その信心の内実、本質とは明かに次元が異なる批判といえよう。碩学にして、この評価なのであるから、一般の念仏者にしてはおして知るべしであろう。この善・悪の問題は、聞法の上で、私の社会的常識を超えたテーマであろう。罪業や罪悪といいながら、あくまても賢善精進の姿になりたがるのだ。そして、真実信心のもののはいい徴が外に現れるであろうという点も、なかなか離れることのできない凡夫の迷妄のひとつであるように思えた。菊藤先生の講演にしても、どこまでも善悪を超えた救い、宿業観に立ちながらも、最終的には、他力念仏を喜ぶ姿は、外の働きかけとなってくる点が強調されているように思えた。個人的には、ここもまた超えさせていただける、いや凡夫淡い夢など、根こそぎ奪われるのが本願念仏の厳しさだと味わうのだが、なかなかこの点で分かち合える方は、華光の中でもそう多くないのかもしれない。

 講演会のあと、妙好人関連の展示があったので見学した。

  http://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/activity/display/unit3/

 本展では「妙好人の死生観と超越」のテーマのもとに、代表的な念仏者である妙好人の信仰と実践に関する展示を企画いたしました。妙好人の中で、大和の清九郎、有福の善太郎、讃岐の庄松、六連島のお軽、嘉久志の仲造、因幡の源左、石見の才市を始め、海外の妙好人も取り上げ、手記や詩、求道の歩みを通じて、彼らの豊かな死生観と安らぎを学びたいと思います。  

Img_1311  前々回の聞法旅行で訪ねた、才市同行の安楽寺(島根県温泉津町)、源左同行の願正寺(鳥取市青谷町)、善太郎同行の浄泉寺(島根県邑南町)を始め、そしてK先生が代務をされていた清九郎同行の因光寺(奈良県高市郡高取町)、お軽同行の西教寺(山口県下六連島)、庄松同行の勝覚寺(香川県三本松)、そして、少々ゆかりもあった涅槃寺(島根県江津市後地町)など、ほとんどのお寺を聞法旅行で訪ねていた。ただ、研究の観点からも、妙好人伝を顕した仰誓師や鈴木大拙師のゆかりの品々も展示されている。そして、何故か、ヨーロッパの白人の念仏者(故人)を現代の妙好人として紹介されていた。

 無料で、かなりしっかりした図録がもらえるので、機会があれば、ぜひお出かけください。ただし、土・日曜日は休館。

  最後に、こんなことを書くと身も蓋もない話たが、

「所詮、妙好人は他人である。人の噛んだチュウインガムにヨダレを垂らすのは、食べるものも食べていない証拠である。後生は、あくまで一人しのぎ」
          (悟朗先生の巻頭言「妙好人の信心」)

のご指南にあってしまった。それでこそ、妙好人のお言葉が一層、輝き尊く味わえると思うのだが、如何か?

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