別れの晩餐
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山の中にあるプールだ。
本番と同じころの時間に出発して、同じころの時間に戻ってきた。
この場所には何度も来ているが、プールは外からしか見たことがなかった。
波やスライダーもあるが、思ったよりも、狭い。でも、平日なので、空いている。ただし、土曜日になると混むだろう。
事前に電話しておいて、事務所で打ち合わせ。食堂も小さくて、1度に食べると一般客が入れないとか、団体の(屋根付きで)休み場所の確保が難しいなどの問題もわかった。水泳キャップがいらないとか、毎時10分の休みがあって、その間にラジオ体操があるなど、現地をみないとわかならいことも多い。
駐車場は無料だが、大型バスは少し手前で降りないといけない。回転する場所がないのである。
さすがに、先日の大型のリゾートプールに比べると、かなり寂しいが、入場料払ってびっくりした。もともと子供300円と安い上に、なんと料金が平日で半額になった。それに加えて、ぼくは京都府の子供パスがあるので、無料というおまけ付き。つまり、大人一人で入ったら700円の半額で350円だが、(京都府の)大人一人と子供二人の3名なら、300円ポッキリと超お得なのだ。「これだけみんなと遊んで、300円だけ」と、何度も口にするので、子供たちは、「また…」と笑っている。あいかわらずの安いものは弱い。当日は、土曜日なので半額ではないが、事前の団体予約で2割引きになるようだ。
子供たちは、日曜日に琵琶湖でも泳いでいるので、5日連続のプールだが、やはり楽しそうだ。上の子といろいろ競争した。クロール、平泳ぎ、そして潜水に、長距離、ハンディーをつけだが、まだまだ負けない。
この調子なら、来年もまだいけそうだ。
当然、日焼けした肌は、また黒なった。
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かなり呑んだが、今回も二日酔いにもならずに、朝から子供大会の準備だ。
初めてお手伝いしてくれる高校生、大学生を交えて、4名で作業。
今度は、いろいろとあって、事前の準備が進んでいない。中心になる先生が不在であると、その間を埋める人がうまく育っていないのが難点だ。
結局、1日ではできなかった。一緒に夕食食べて、今度は、スカイプで会議。こちらの方がメーンの先生方である。
今度は、少し人数が少ない寂しい大会になる。もしかしたら高校生以上の大人の方が多い、華光仏の大人大会かもしれないなー。
明日は、まだ未見のプールの下見が待っている。保険、バス、宿舎と最終の打ち合わせ、買い出しに、荷物、これまでの経験からいっても、まだまだ準備が必要だ。
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今年も、中学の同窓会の飲み会に出る。
うまい具合に、旅行の日程とやりくりできた。
会場は、京都駅前の京都タワービルの屋上だ。
ここからだと、京都タワーが、こんなに見える。
それにしても、暑い。
連日、猛暑日で、37度を超える日もある。それでも、節電効果があるのか、電力は安定しているのはありがたい。
こんな時こそ、涼しい屋上でのビアガーデンがぴったりと思うが、なんのことはない。都会のビルの中、冷風ならぬ、温風がふいている。これなら、まだ屋内のビアホールの方がましだと、みんなこぼしていた。しかも、ビアガアーデンは、8時30分でオーダーストップだ。ぜんぜん涼しくないまま、大汗をかきながら、ビールを飲む。
家の近所の店に、二次会に移って、あれこれ四方山話。35年ぶりに出会う人もあったが、いろいろ話す内に記憶が蘇ってくるから不思議。しかも、妙な細かなことまで思い出してくるから、おもしろい。
昔話や愚痴をこぼして騒いでいたら、深夜2時を回って二次会はお開きで、次ぎに移動。
それにしても、50を過ぎても、8時間近く呑み続けても、みんな元気だなー。
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山中温泉を後に、また吉崎御坊を通って、芝政ワールドに向かう。
昨年、楽しかったので、子供たちのリクエストだ。上の子は、波のプール、下の子は、流れるプールが好みだが、岩石のプールで鬼ごっこが、楽しかった。みんなで、笑ったり、ケンカしたり、ワイワイとやるのがいちばんである。子供たちも、ずっと笑顔だ。
それにしても、今日も暑い。
夕立にもなりそうにない。暑さのせいで平日でも、かなりの人出がある。
何度も並んで、大型のウォータースライダーをする。ギネス級で、これはかなりの迫力。特に、前が見えない黒いチューブは、ドキドキする。
プールの閉館間までたっぷり遊んで、ギリギリまで遊園地で遊んだり、ゴーカートに乗った。初めての運転に二人は喜んでいる。
帰路は、海岸に夕日が落ちかけている。
それにしても、3日間、たっぷり遊んだ。
日焼けしていた子供たちも、一段と黒くなったが、ぼくも、真っ黒に日焼けした。
車が動きだすと、ふたりは熟睡しだした。
親には、まだ安全運転という仕事が待っている。
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寄り道ではなく、目の前を通るのだから、お参りしていくことにした。
それこそ、山中温泉に連泊した聞法旅行以来になるが、仏青や個人を合わせると、何度目になるのだろう。
子供たちにお参りさせたかったが、下の子は熟睡していて、降りないで寝ているという。仕方がないので、お山めぐりはやめて、東西の別院にお参りさせてもらった。上の子は、腹籠もりの聖教で有名な本向坊了顕師や、肉付きの面に
興味があったようだ。たぶん、この願慶寺が本家(?)だろうが、道中でも別な肉付けの面があって共演しているのが、おかしい。未見の新しい会館は、すでに閉館していた。
この北潟湖の風景は変わっていない。ここは蓮如の里である。550年たったいまも、蓮如上人のご教化のおかげで、観光地としての賑わいは
あるようだ。
そのまま山中温泉へ。静かな温泉街の風情と、やさしいお湯が好きだ。ここもまた、蓮如上人のご縁の地だ。こおろぎ橋から、聞法旅行では、おあさじをつとめさせてもらった蓮如堂まで歩く。薄暗くておぽえていなかたっが、神社の中にたっている小さなお堂だった。いまは亡き、日高のTさんが、ここで購入されたお名号をたいせつにおまつりされているのを思い出した。
蓮如堂だけでなく、碑文やゆかりのお寺など、ここもまたさまざまな形で、蓮如上人が偲ばれる温泉街だ。
ちなみに山中温泉では、初めて湯快リゾートの宿を利用してみた。部屋のサービスがない分、料金を格安にしてある。逆に子供連れだと、湖ズレ気楽でいい。料理はバンキングなので、食べすぎるきらいはあるが…。前日に比べると、かなりリーズナブルだったが、子供たち、こちらの方がよかったようだ。
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ずいぶんレトロな匂いのする水族館だ。水槽や建物は古くて、小さい。特に、目玉になる魚がいるわけではないが、その分、魚なとの触れ合いなどにずいぶん工夫されている。
都会と違って、駐車場が無料なのがいい。そういば、昨日の海水浴場も無料、このあとの芝政ワールドも無料と、この当たりは気前がいい。逆にいうと、車がないと不便なところだいうことだろう。
イルカショーの規模も小さいが、すごく間近で見ることができるので、迫力がある。
子供たちは、触れ合いコーナーでタコやサメを触って、歓声をあげている。
魚にエサをあげて、一緒に泳げるプールもある。残念ながら、水着は車のなかだったが、子供たちは、いつまでも魚たちと触れ合って喜んでいる。
変わったところでは、磯観察のツアーに参加した。こちらは、自然の中で、ナピゲーターに教えてもらって、いろいろと磯の生
き物を観察する。ただ、足場が悪いので、下の子はスカートが濡れるのが嫌で、岩場で佇んでいる。こんな時は、大人も童心に返る。
そん中での子供たちのいちばん人気は、ドクター・フイッシュだった。上の子は、「一家に一匹(数匹だが)ほしいなー」と、吸いつかれて、盛んに喜んでいる。
おかげで、海で泳いだ昨日以上に、日焼けしたようだ。
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夏休み。都合で、早めに休みにして、子供たちの希望で、昨年と同じく芝政ワールドという大型プールや遊園地のあるレジャー施設などに2泊3日の旅をした。
また昨年と同じく、初日は越前海岸の海で泳ぐことにした。昨年と違うのは、今年は、すでに猛暑で、京都は連日35度の真夏日が続いてることだ。むしろ、海岸線から吹く風が心地よいが、初日で、早くも日焼けした。
琵琶湖で「湖の子」になって少しうまく泳げようになったかと思ったが、下の子はまだまだ海が怖い。浮輪が外れて、プチ溺れて、大騒ぎ。近くに、ぼくも、上の子もいて、たいしたことはなかったが、怖かったのだろう。それからはションボリと、テントでたたずんでいる。
ゆっくり泳いで、今夜は、芦原温泉泊。
子供たとちは、「あわれホテル」と読み間違えたが、けっしてあわれではない豪華な温泉で、ゆっくり食事して、夜は、夜店と卓球対決。上の子は、卓球部で頑張っているが、まだぼくの方が強い。
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仏青例会が終わってから、9月の大遠忌法要の講演会の会場となる、担当者とハートピア京都に向かう。
朝から、日礼、仏青、子供大会の打ち合わせ、そして下見と、大忙しいの日曜日である。
ここは、初日の森達也氏と、2日目の昼座の信楽峻麿先生の講演会場になある。会場の都合で、当日とも、30分程度で荘厳、準備しなければならない。
今日は、可動式のイスはすべて収納されていて、フラットな状態だが、当日は、シアター形式(階段状のイス)の会場となって、申込済の同時はギャラリーと言われる4階から出入りすることになる(下の写真)。
ただ、舞台は思ったよりも小さかった。対談交流会の位置取りや映像の投影に関連する問題などがあった。それにしても、巨大な「阿弥陀様」の絵像は、この会場に映えた。
お世話のRさんを始め、司会役や荘厳役の皆さんが、あれこれと位置取りなどを確認されていた。
イスが収納されているので、ちょっとわかりづらいが、やはり実際に現地に入っておいてよかった。
駐車場も確認して起きたかったので、今日は車で下見をした。問題は、会館からの移動だが、地下鉄烏丸線が直結しているので、京都駅からでも、地下鉄十条駅からでも、交通の便はとてもよい。2日目の祝賀会会場は、すべに下見済だが、ここからだと、地下鉄で2駅だし、タクシーに分乗しても、すぐである。
ひとつひとつ仕事を片づけていくことで、本番が近づいてくる気配である。楽しみだ。
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8月の仏の子供大会の関係で、今日の日曜礼拝は、10時から午前のみ。法話の担当者が、大阪支部法座と重なっていたため、ぼくが担当した。法座が重なり、午前中だったこともあって、子供も大人も少なめだったのは、残念。
今年の子供大会のテーマである「善い心・悪い心」をテーマに。人数は少なかったが、子供たちの反応はたいへん活発。問いに対して、次々と答えが返ってきて、こちらも面白くて乗ってきた。これは、単なる道徳や倫理の話ではないので、子供たち(たぶん大人にも)難しいテーマだ。まずは「心」は置いておいて、「善い子、悪い子」の自己評価から始める。子供なりにも、社会や大人、親の道徳観や倫理観が備わっているのがおもしろい。親の言う事を聞かないから、自分は悪い子だというのは、小学生も大学生も同じ。そこから、それぞれが考える「善い事」と「悪い事」を列挙したが、この答えがすこぶるユニークで面白かった。
しかしながら、それは、極重悪人をお目当ての阿弥陀様のお心とはほど遠いものである。たとえば、人殺しでも、正当防衛はどうか、職務ならどうか、防衛のための戦争ならどうか。実は、状況や時代,国によっても、法律か、道徳のレベルでも善悪の評価は変わる。つまりは、人間世界においては、善悪の末とおった基準などないのであって、末とおらないものに、真実はないといっていい。「善し・悪し」の世界で一喜一憂している私だが、その私は、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」なのである。
ところが、下の子が、突然「仏様のお話をきくことが善いこと」と言い出した。逆にいうと、「仏様のお話聞かない=疑う」ことが悪となる。こうなると、基準は、仏法である。仏様(阿弥陀様)こそが、最高善であり、仏になることこそが善に向かっていく唯一の道なのである。
もちろん、子供たちにはこんな難しいことは話さないが、単なる行動レベルではなく、「心」の問題について投げかけておいた。ほんとうは、宿業レベルまで問題にしないと、如来さまの大悲のお心には触れることはないのだろうが、単純(表面的)な賢善精進に留まる方がおられるのが気にかかる。
午後からは、仏青例会。今回は、子供大会の法話担当の先生方の実演。不参加の方は、レジュメを読んで、法話を検討していったが、やはり、4回の法話を通してお聞かせに預かると、単なる子供向けにとは侮ることはできなかった。もう一工夫された本番が楽しみ。
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華光誌輪読法座。 急な雷雨となって、皆さんの出足が鈍る。空気が入り変わったようで、猛暑も一服。
巻頭言「灯し火」から輪読する。事務所のT君の巻頭言デピュー作だ。詩人でもある彼の文章には、独特の鋭さがあるが、後半は、意図的に話し言葉も交えているので、読みやすくなっている。それでも、一人で一読して分かったというものでもない。何度か、皆さんと声に出して読み、そして時間をかけて味わっていく。著者の意図も尋ねてみる。そうしている内に、だんだんとその意味や味わいが進んでいくことを、みんな感じたようだ。
冒頭の「言葉にしがたい不安や恐れに触れるとき、こころは叫ぶ、魂がなく」の言葉をみんなで味わう。
まさに頭だけでなく、常日頃よくよく実感として理解していたことであっても、私の命の灯し火がきれるときには、何が起ってくるのだろう。仏法は、どこで聴聞していくのか。きれいごと、分かったようを口を聞いても、恐ろしいほどなんであるのが、わが身なのである。まさに、底無しの闇である。さてその時、鬼が出るのか、仏が出るのか。自性を考えれば、ロクナものはでないことだけは確か。そこが面白くも、有り難いところだが、現実となると、なかなか厳しいのものだなー。
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雨の多い梅雨から、一転、猛暑になった。部屋のPCが、暑さでうなりをあげている。人間のぼくは、エアコンがなくても、扇風機で我慢できるが、どうやら機械の方が、先にこの暑さにまいってしまいそうである。電気を食って、熱を出して、それを冷やすためにまた電気を食って、熱を出す…。すべて、快適で、便利だという一点にある。
近々の法座のご案内です。
まずは、「仏の子供大会」欠員ありの情報提供。
さて、8月の仏の子供大会が、先日〆切を迎えた。ところが、ここにきて、体調から、キャンセルの不参加が発生。定員を割っているので、大至急なら受付られる。迷っていたり、検討されている方があれば、いますぐお申し込みを!
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/08/kodomo2012-8.htm
2)華光誌輪読法座:21日(土)昼1時30分~夕5時
今月は、7月号の巻頭言-司会役のT君のものと、聖教の心を、みんなで輪読する。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/07/rindoku2012-7.htm
3)日曜礼拝: 22日(日)朝10時~12時
いつもは午後からだが、仏の子供大会の関係もあって、午前中。時間にご注意ください。
法話は、子供大会のテーマで。担当者が、大阪支部法座なので、急遽、ぼくに変更。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/07/nitirai2012-7.htm
4)仏青例会:22日(日)昼1時30分~4時前
そして、午後からは、仏教青年会の法話会。子供大会の法話の検討。いつも有り難く聴かせていただくが、今年は、担当の先生がお一人のみ。あとは、レジュメの検討となる。ぼくもけ少しお話したい。いつもより、早めに終わって、子供大会の打ち合わせに入る。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/07/bussei2012-7.htm
5)大阪支部法座:22日(日)昼1時30分~4時30分
同日は、大阪支部法座。奈良県生駒市のセイセイビルで。悟朗先生が出講される。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/07/osaka2012-7.htm
6)東海支部法座:22日(日)午前と午後の二部制
また同日は、東海支部で、午前、午後と、支部法座がある。午後からは、若手講師のご法話。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/07/tokai2012-7.htm
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曇天と、京都も一部でゲリラ豪雨での壮年の集いだったが、15日からは一転、真夏日の猛暑がやってきた。
今年の「仏壮」には、昨年のサイコドラマのような企画はなかったので、ある世話人と相談して、夜座を30分ほどだけ早くきりあげて、希望者だけ祇園祭の宵々山に繰り出すことにした。希望者がなければ、やめるつもりいたが、ちょうど手頃な人数が集まった。どうせ、1時間ほどのことだと思っていたが、心配していた人出も、9時を過ぎていたこともあって、日曜日の割には混雑も緩和。たぶん、3日間に
分散され、やはり16日の宵山が多いのだろう。
それにしても、蒸し暑い。みんなで最初にしたことは、生ビールを飲むことである。これがやたらにうまかった。駒形提灯に明かりが灯り、祇園囃子が響く雰囲気は風情満点。人込みも、またそれなりに必要なある。ほんの5~6基の山や鉾を巡り、少しだけ屏風祭りも覗いた。子供たちは、夜店でヨーヨををやったり、かき氷を喜ん
でいる。
ちょっと疲れたので、行きつけのカフェまで足を延ばして、みんなでまったりとしながら呑んだ。なにか華光会館の法座の雰囲気から、一瞬にして異空間にやってきたて、不思議な感覚。そらそうだわー。南無阿弥陀仏から、いちおう、八坂神社の神事なんだからと、神仏習合の姿勢をからかわれつつ、けっこう楽しかった。なんか、こんなことでも、こころが開いた気がしたなー。
さて、その「壮年の集い」も無事終わり、翌日17日。梅雨明け宣言で、晴天の中の巡行。やはり真夏日の猛暑である。一段と暑い。
たまたま京都シネマに映画を観に行くついでに、山鉾巡行を覗いた。 もうお昼を回って、ちょうど山鉾が帰路につくところ。人出も減って、けっこうこのあたりが間近でゆっくりと眺めれる。
毎年、祇園祭の記事を書いているが、山鉾巡行は、5年ぶりかなー。http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_0723.html
遠くから、コンチキチンのお囃子が聞こえ、巨大な山鉾が、揺れ、軋みながら巡行する姿は圧巻。
といっても、カメラのバッテリー切れで、撮影ここまで。それにもう映画が始まる。見るのは、ウド鈴木主演の「一遍上人」。山鉾町にある映画館も、今日は午前中は休館で、午後からだ。30分ほどの見物だっが、気分は高揚した。
映画を終えて、映画館をでたら、もう鉾の解体作業中。山はもうあとたかもなく、杉の木を切ったりの後片付け中だった。
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九州を中心に、各地でゲリラ豪雨が続く中での、壮年の集い。
2泊3日になったからか、年齢制限を厳密にしたから、少し出席者が減ってきたけれど、その分、小グループでの信仰座談会がみっちりとあった。ちょっと、ぼくのグループは、今回は、出入り(夜座は欠席だったり、中日や3日目だったりと)があったこともあって、グループとしての深まりはなかった。長時間に座談や求道者がいない場面でもは、今生事の話題や人の話が話題になる場面もあったのは、少し残念だった。
法話は、毎日1回で、3座。
ぼくは、信巻の至心釈、法義釈の「機無、円成、廻施」から、お救いの構造、つまり仏願の生起本末についてである。
この私は、無始よりこのかた乃至今日今時、いまいまに至るまで、ほんとうに微塵も、一瞬たりとも、穢悪汚染(わぜん)そのものであって清浄心のかけられなく、虚仮諂偽(てんぎ)そのものであって真実心のかけられもない(機無)。だからこそこの苦悩の衆生哀れみたもう真実そのもののお働きは、不可思議兆載永劫のご修行において、一念一刹那の瞬間瞬間も、清浄でなかったことも、真実でなかったことも、一瞬になら毒も不真実も混ざることなく、清浄の真実心、円融で無碍で不可思議で不可称で不可説の智慧そのものも徳を成就してくださった(円成)。その如来様の真実心でなっも、一切の煩悩に狂い、悪業に苛まれ、毒をまき散らし、間違った知恵そのものの綿しくに分かって、清浄真実のまことを廻向し、施してくださるといのうである(廻施)。
そして、その真実心とは、生きとし生きる苦悩し、迷える一切衆生を救わんというまことの心であって、その疑蓋が雑ない真実心こそが、名号の活動相となって現れてきてくださるというのである。
つまり、どこをどう切り取っても、どの時代であっても、私の中には、清浄も、真実もまったくないという事実をお聴かせ預かるのである。これは、信前、信後に変わりはないのだ。真実信心を獲得したからといって、わが身は地獄一定と決定させれるのである。しかし、同時に、その地獄一定を哀れみ、真実を成就し、真実そののもを廻向くださる往生一定のお働きこそが真実だと決定させていただくのである。
これは、翌日、決して、打ち合わせたわけでもないし、ぼくの法話も聞かれていないが、
「如来の作願をたずぬれば、苦悩の有情を捨てずして、
廻向を首としたまいて、大悲心をば成就せり」
のご和讃をご讃題にされたK先生の「廻向」についてご法話と、符号するかのような内容となった。言葉は違ったが、まさに、「機無、円成、廻施」のお心を、懇切丁寧にお取り次ぎくださったようである。
3日目のご法話のG先生は、『歎異抄』の「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」をご讃題に。世間虚仮の実相を分かりやすい具体例で示しながら、念仏のみぞまこと。そして、勇みの念仏ともいうべき、称名念仏のお勧めで、念仏道場も、お念仏の声がこだましていた。
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悟朗先生の「真宗基礎講座」(教義編)をテキストに進んできた伝道研究会。最終章の「真宗の聖教」に入って、宗祖の和文聖教の概観と、列祖-特に、覚如、存覚、蓮如上人の聖教の概観をざっと、眺めていった。
親鸞聖人のものはともかく、蓮如上人の御文章や聞書、覚如上人の報恩講関係の書物以外は、ほとんど目にすることはないものばかり。たとばえ女人往生の問題とか、神祇観、真俗二諦の問題など、親鸞聖人に直接言及がないが、後の浄土真宗に影響を及ぼした各問題ついては省みられる(批判的だが)ことはあっても、一般のご門徒はもちろん、真宗学の学生レベルでも、覚如、存覚上人のものに触れる機会はいまはほとんどない。
いろいろと問題はあっても、800有年という真宗のもつ奥深さを感じる機会となった。そのほとんどが、宗師とこの3名の列祖の流れということになるのだ。
さて、伝道研究会は、8月は夏休み。9月からは、教義編から、安心編に入る。行、信、行(称名)、証と、10年分の講習会のテキストを使う。その第1回目なので、これまでご縁のなかった方も、ご参加いただきたい。ただし、いまのペースで進行するならば、すべてのテキスト終了は、10年後ぐらいになるだろう。
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7月の第二日曜日に開かれているY家での広島支部家庭法座。仏壇を新しくされたことをきっかけに、毎年、ご縁が続いて、8年目になった。家族やご近所の方も座ってくださる。
広島駅で待機中のジャンボータクシーに乗り込むと、運転手はご長男。彼も、子ども大会には出席され、お子さんも長らく参加されていた。中国道を島根方面に向かって、安芸高田市の高宮町まで、約70分ほど、緑の中をドライブ。
今年は梅雨の中休み。前日まで大雨だったが、空は、すっかり夏だが、暑くはなくて、さわやかな気候。、山に挟まれた緑豊かな会場には、クーラーはない。広い仏間は、縁側の戸もすべて全開されて、川からの風か心地よい。例年なら、扇風機が回されるが、今年は、それもいらない。涼しいほどの風が抜けている。窓の外には、例によって蓮の花がお出迎えだか、見頃はもう少し先だろう。
初めての方や1年ぶりに2回目の方など、新しいご縁の方がけっこう多かった。座談も終盤にさしかかり、それらの方々、仏縁をお聞きすることになった。
島根のM先生にお育てをあわれた同行からは、若き日に、在野の念仏者の厳しい法縁で、後生の夜明けをされた体験が有り難かった。また、島根から初参加の3名の方は、それぞれが、いま愛別離苦の苦しみに苛まれつつも、その逆境を縁として、なんとか本願念仏のまことを求めてやまないご心境を、率直に語ってくださったが、飾ることなく、ありのままお話くださる姿が尊かった。
それにしても、同じ支部法座でも、ホールや集会所と違って、やはり家庭法座はいい。依所となるご家庭の、それぞれの雰囲気が醸しだされてくる。特に、このF家の場合、縁側から外に開かれていて、その解放感があるのか、皆さんの心の構えも解きほぐされるかのようだ。
最後に10分足らずあったので、みんなでお念仏をさせてもらった。わたしがこだわっり、翻弄されている理屈やさまざな感情も、「南無阿弥陀仏」の前には、すべて虚仮不実だと浮き彫りにされてくる。しかも、皆さんと称える。その「称える」声が重なりあって、諸仏方に百重千重囲繞されているかのようである。
4月の東京で、「南無阿弥陀仏ひとつで足りていた」と、号泣念仏された方のお言葉で、法座を結ばせてもらった。F家の仏間が、緑の中、南無阿弥陀仏に包まれているかのような法縁だった。
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元気を取り戻して、お目当ての国立民俗学博物館へ。
ここも大学生以来なので、だいたい30年ぶりになる。入り口の大型の手動オルゴールのことは覚えていたが、以前は自由に演奏することができた気がする。
2階に入ると、エビ型の棺桶がお迎え。ここで入館料を払う。土曜日なので子供は無料だった。ただ、ぼくは、ここに入場するのなら、自然公園券は必要なかったので、250円損をした。そ
れでも420円也を払っただけだ。無料の電子ガイドの貸し出しをして入場。
コンセプトは変わっていないが、この30年で、すごく蒐集品が増えて、展示が充実していることに驚いた。全然、違っているいっていい。
そして、とにかく面白い。そしてすばらしい。何も、貴重な美術工芸品や芸術
性の価値だけではなく、たとえそんな価値のない日常品や土産物、体系的に蒐集され、分類されて展示せされると、意匠や色彩などに心奪われるのもばかりだった。それは、
ぼく以上に、子供たち
も、興味津々だ。国宝級の美術的な価値の高い一般の博物館なら、すぐに飽きる下の子が、いちばん熱心に電子ガイドの解説に耳を傾け、盛んに展示ポタンを押して楽しんでいる。
おかげで、2時間では、
2/3程度しかみれずに、日本や中国などの東アジアのブロックは寄れずに閉館時間となった。
オセアニア、南北アメリカ、ヨーロッパ、そしてアフリカに、西、南アジア。加えて、音楽や言語のコーナーも充実していた。
たとえば、フィージの殺戮した敵の人肉を食べるための悪霊よけのファークとナイフ!とか、ハワイの女神像とか、子供が思わず「太陽の塔だ」といったオセアニアの仮面とか、メキシコの色彩豊かな民芸品に心奪われ、インドのカルマ(業)の木、、キリスト教のイコンに、阿弥陀仏像でもインドとネパールとチベットでは違う。ギターひとつでもすごくいろいろある。
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雨も上がったことだし、子供たちと吹田千里の万博公園に行くことにした。大阪といっても、京都寄りなので30分ほどで到着する。
久しぶりに太陽の塔を間近にみた。懐かしい思いは、過去の記憶を蘇らせる。
エキスポ’70、大阪万博は、いまから42年前。ぼくは、8歳、小学校の3年生のことだが、かなり鮮明に記憶が残っている。月の石で、長蛇の列のアメリカ館をあきらめて、ソ連館に入った。ここも、宇宙開発の展示が華やかだった。米ソが、二大超大国の冷戦時代だったのだ。
子供だけでなく、大人も熱狂していた。地方の人も、万博見物に押し寄せて、法座とは無関係で華光会館を宿舎代わりに利用されていた。日頃、疎遠の遠方の親戚も宿泊した。東京五輪から大阪
万博へ。日本は高度成長の絶頂期にあったことを、体感的に感じることができる出来事だった。同時に、この年の日本は、よど号と、三島事件など重大事件が相次いだ。
学生時代にエキスポランドに遊びに来て以来なので、30数年ぶりだ。そのエキスポランドは、例の死亡事故以来、廃業してしまったが、パビリオンの跡は、広大な緑豊かな公園になっている。もともと丘陵地を切り開いたのだから、もとの
緑に戻っただけなのかもしれないが、まだ開業前の工事中の見学を、父に連れていってもらったことを思うと、どうも感慨深い。下の子が、8歳なので、ちょうどこの頃なのだが、けっこう憶に残っているということだ。
緑の中を、大型の遊具が、ポツポツと点在している。歩くだけでもかなりの運動になるが、風が強くて、気持ちがいい。朝は、雨もパラパラしていのだ、ほんとうに人もまバラだ。
子供たちには、新鮮な場所のようだったが、それでも、太陽の塔ぐらいは知っていた。
風は心地よかったが、日が照ると暑くなってきた。変わった自転車に載ったり、かなりの距離も歩いて疲れたが、実は、今日の目的は、この公園ではない。同じ敷地にある国立民族博物館、いわゆる民博の方である。アイスクリームを食べて、元気になったところで、民博へ。こちらも、30年ぶりである。
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仏様「ご注文なし お差し支えなし」
私 「ああなって、こうなって、でもなれなくて」
仏様「ご注文なし お差し支えなし」
私 「でも、胸がなんともなくて」
仏様「ご注文なし お差し支えなし」
私 「でも、それも分からなくて…」
仏様「ご注文なし お差し支えなし」
私 「でも、この状況では…」
仏様「ご注文なし お差し支えなし」
私 「ご注文だらけ、差し障りだらけ」
仏様「ご注文なし お差し支えなし」
「ご注文なし お差し支えなし」
「ご注文なし、お差し支えなし」
「ご注文なし、お差し支えなし」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「よしあし」の注文と差し障りだらけの世界に生きる、これまた、注文と差し障りだらけの私に向かって、大悲と大智のお働きは無条件にそそがれているのだ。
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定期的な個人面談を引き受けた。ぼくにとっても、これまでのただ言葉を大切にするだけでなく、そこから浮かび上がるイメージも大切にしながら、体験的理解を得る経験をさせてもらう勉強の場である。おかげで、聴くことが楽しいというか、体験的(共感的)理解がリアルになってくるという成果が得られている。相手のフェルトセントが、イメージとして、ぼくにもハッキリと立ち上がってくるように感じられている。なかなか皆さんには理解いただくのは難しいことも経験していて、個人的(一対一)な面談ではないと、グループ座談の場で行なうことはまだ無理だ思っているが、ここにぼくなりの真宗カウンセリングへの道が開けてくるのではないかという新たなビジョンも見えている。
それ以外にも、いろいろと味あわせてもらうことが多い。たとえば、信仰座談会の関わりなどでの問題点の指摘にも、首肯させられることも多かったが、いまのこの程度で。
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ご案内をいただいたご縁で、龍谷大学で菊藤明道博士の講演を聞く。妙好人もそうだが、「超越」というテーマに興味をもった。ところが、講演テーマは、「妙好人の死生観と願い-その言行から苦悩を超える道を学ぶ」に変わっていた。現役では第一人者といっていい先生の講演だが、一般の方も多くて、かなり総花的な話題で、詳細なレジュメ等を読ませてもらえば、十分である。
それでも、講演は、押さえるところは押さえておられさすがの内容だったが、次ぎの点を重ねて強調されていたように思う。
妙好人とは、真実信心の念仏者を阿弥陀仏が讃えられたのであって、決して言動や道徳的な人格者をさすものではない。妙好人と称讃される念仏者であっても、どこまでも「よしあし」に迷う凡夫であり、その身を通して本願の念仏を申し、喜ぶ身となられている。妙好人伝にある、泥棒等を喜んで品物を差し出すようなエピソードも、真実信心者が社会的な善人、人格者になることでも、また相手を、我善しの観点から上から目線で裁くのでもなく、「さるべき業縁催さばいかなる振る舞いもすべき身」としての同体の宿業観、さらに共に同じ本願念仏を仰ぐ大悲観を現れであること。
なぜなら、本当の善、正しい行いは、凡夫の善や行ではなく、阿弥陀如来のお心のみであって、その本願の念仏が智慧となり、往生浄土から還相廻向の無限の利他の働きもまた、すべて阿弥陀如来の他力廻向の本願力によるものである。
しかしながら、他力の念仏を喜ぶ姿は、必ず自然と外にあらわれてくる。社会的実践となり、自分ひとりに留めない念仏弘通のお働きとなってあらわれてくるという点も強調されていた。
特に、今回の展示のテーマのひとつが、大震災とのかかわり(妙好人の災害時の寄付行為の礼状のコーナもあった)であったが、妙好人の生き方からを学ぶことで、「信頼や連帯感、安心感を取り戻し、共に支えあい生きるためには、真如より来生した阿弥陀如来の呼び声(本願の念仏)を聞いて生死を超え、苦悩を転じて豊かに『いのち』を生きた」妙好人から学びことが多いこと。妙好人から照射される光によって、これまでの生き方、思考の在り方を転換さて、未来に向けて新たな歩み行く道を照らしだされるということで、結論とされていた。
これと関連することだが、けっこう知られたエピソードではあるが、鈴木大拙師によって、讃岐の庄松同行が紹介された時においてさえ、大派の碩学である金子大榮師や曽我量深師は、非常識的な言動、むしろ社会的には奇異にうつる行動をさして、「謀反人」「反逆者」「本当の妙好人ではない」「いま、あんな人がいれば困る」なとと批判している話題がでた。
結局、外に現れた社会性、なかでも、道徳的、常識的な善悪の規範で評価されているのであって、その信心の内実、本質とは明かに次元が異なる批判といえよう。碩学にして、この評価なのであるから、一般の念仏者にしてはおして知るべしであろう。この善・悪の問題は、聞法の上で、私の社会的常識を超えたテーマであろう。罪業や罪悪といいながら、あくまても賢善精進の姿になりたがるのだ。そして、真実信心のもののはいい徴が外に現れるであろうという点も、なかなか離れることのできない凡夫の迷妄のひとつであるように思えた。菊藤先生の講演にしても、どこまでも善悪を超えた救い、宿業観に立ちながらも、最終的には、他力念仏を喜ぶ姿は、外の働きかけとなってくる点が強調されているように思えた。個人的には、ここもまた超えさせていただける、いや凡夫淡い夢など、根こそぎ奪われるのが本願念仏の厳しさだと味わうのだが、なかなかこの点で分かち合える方は、華光の中でもそう多くないのかもしれない。
講演会のあと、妙好人関連の展示があったので見学した。
http://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/activity/display/unit3/
本展では「妙好人の死生観と超越」のテーマのもとに、代表的な念仏者である妙好人の信仰と実践に関する展示を企画いたしました。妙好人の中で、大和の清九郎、有福の善太郎、讃岐の庄松、六連島のお軽、嘉久志の仲造、因幡の源左、石見の才市を始め、海外の妙好人も取り上げ、手記や詩、求道の歩みを通じて、彼らの豊かな死生観と安らぎを学びたいと思います。
前々回の聞法旅行で訪ねた、才市同行の安楽寺(島根県温泉津町)、源左同行の願正寺(鳥取市青谷町)、善太郎同行の浄泉寺(島根県邑南町)を始め、そしてK先生が代務をされていた清九郎同行の因光寺(奈良県高市郡高取町)、お軽同行の西教寺(山口県下六連島)、庄松同行の勝覚寺(香川県三本松)、そして、少々ゆかりもあった涅槃寺(島根県江津市後地町)など、ほとんどのお寺を聞法旅行で訪ねていた。ただ、研究の観点からも、妙好人伝を顕した仰誓師や鈴木大拙師のゆかりの品々も展示されている。そして、何故か、ヨーロッパの白人の念仏者(故人)を現代の妙好人として紹介されていた。
無料で、かなりしっかりした図録がもらえるので、機会があれば、ぜひお出かけください。ただし、土・日曜日は休館。
最後に、こんなことを書くと身も蓋もない話たが、
「所詮、妙好人は他人である。人の噛んだチュウインガムにヨダレを垂らすのは、食べるものも食べていない証拠である。後生は、あくまで一人しのぎ」
(悟朗先生の巻頭言「妙好人の信心」)
のご指南にあってしまった。それでこそ、妙好人のお言葉が一層、輝き尊く味わえると思うのだが、如何か?
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計画停電の初日。もしあるのなら、朝の時間帯の予定だったが、このところ、雨も多くて、まだ暑い日は少ないので、今週は安定供給が続きそうだ。
それにしても、なかなか周知徹底されていないのに驚いた。2日前に入ったカフェで、「計画停電になってら、営業はどうするの?」と尋ねたら、明後日から計画停電があること自体をご存じなかった。他の人と話していても、新聞のグループ分けもかなり急で、まだ自分たちのグループのことや、今日が開始日であることも知らない人が、案外多い。1年以上の時間があったのに、関電の告知等の事前準備もまったく不十分だ。さらに、どこかで関心薄なのが、気にかかる。結局、大丈夫だろうと思っているのかもしれない。
しかも、今日は、あれだけ反対があるにもかかわらず、利益のみ優先される形で、大飯原発が再稼働した。このままなし崩しで終わっていくことも怖い。
今日は、クーラーも扇風機も使わずに過ごした。個人的には、まだこの夏はお世話になっていない。子供のころからクーラーが苦手なこともあって、暑さには強いのだが、法座や事務所でも、節電をお願いしていきたいが、なかなかの強敵もおられる。
この節電をきっかけに、個人のできる範囲は小さくても、原発に頼らないような生活を考えていきたものだなー。といっても、不自由ないやなので、このあたりはうまく折り合いをつけていくしかない。
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もう少し近いのかなと思ったいが、会場から、だいたい30分程度で、京都府唯一の鍾乳洞がある。
以前から、日高法座の行き帰りには標示を気にしたいが、わざわざ行くことはなかった。今回も、追ハイが心配だったので、選択肢ひとつで見ておくことにした。
鍾乳洞に見るのは、ほんとうに久しぶりである。大型の秋吉台や平尾台などに入ったことはあるが、ここは小さい。でも、ひとつ面白い特色があると聞いていた。竪穴で、垂直に
おりていかねばならないのである。
車を止めてから、川沿い道を進み、山道を歩く。400Mくらい山の中腹にあるのだ。けっして大きくはないが、中に入った瞬間、独特の冷気が襲ってくる。年中、一定の温度だそうだが、これはかなり涼しい。なによも、すごい雫が垂れている。最初は、そうでもないが、少し進むと垂直に階段がついている。しかも、暗くし狭い上に、手すれが冷たくて、上らかは雫が垂れて、びしょ濡れにって、足元は滑る。けっこう、インディ・ジョーンズのような探検気分が味わえるのは間違いないが、怖くて、途中でリタイヤしたものも出た。きっと子供は喜ぶだろうが、低学年の男の子は、ふざけていると
危険かもしれない。
ほとんどが初鍾乳洞というのもあって、わいわい言いながら、みんな探検気分を味わった。
でも、交通の便などを考えると、残念ながら、今回は難しいかもしれないなー。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%AA%E5%BF%97%E9%8D%BE%E4%B9%B3%E6%B4%9E
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Rさんの紹介で、京都府の中丹、和知山の家が、初めての会場だ。http://wachi.org/index.html
初めてなので、追ハイも含めて下見がいる。最近は、若手の先生方にまかせていたが、今年は、人材不足で、そう悠長なことはいってられなくなった。しかも、頼りに思っているS君が、当日になって病欠。顔ぶれを考えると中心で動かざるおえない。子供たちも連れて出かけることになったが、車中は、小学生、中学生、高校生、大学生、そして大学院生と、きれいにそろって、ぼくと6名。年齢の幅は大きいが、下の子のなぞなぞ合戦で、ずいぶん盛り上がっている。みんな、ハイキング気分なのは致し方ない。
9号線を北上し、27号にはいり、府道を山間部に抜けていく。川沿い山に向かう道で、通り抜けはできないので、地元の方以外の車は通らない。しかも、ケイタイも圏外になる。それでも、雨の日曜とあって、道はすいて、京都からは90分ほどと便利だ。ただ、最寄り駅からのバスも1日の4本しかないので、京都駅からバスをチャータした。
今日は、管理人が不在で、地元の方にカギを開けてもらうことになっていたが、約束の時間になっても、誰もあらわれない。ケイタイの繋がるところまで戻って連絡して、待つこと40分。「どうぞ、何か入ってご自由に見学してください」と、地元の方が見えた。あの、それはやまやまですが、カギが掛かってますが…。といわけで、カギを取りに戻るまで、また10分ほど待って、やっと中に入れた。どうも、この施設の1~2分のところの方のようだが、約束を忘れておられた模様。あくせくし
ないのは田舎時間なのだろうが、ちょっと先が思いやられる。
それでも、会場の中は思ったよりも広々していた。大広間が少し狭いが、食堂や分級や就寝場所の個室も、揃っている。風呂や洗面所も広そうだ。洗濯も、体操やキャンプフアイヤーも問題はない。まあ、食事は、ワンプレートなので、これまでのようなご馳走とはいかないだろうが、子供向きではあろう。黒板、冷蔵庫、オルガンなどの細々したことは、これからの詰めである。問題は、追跡ハイキングだ。
あらかじめ、ネットで調べていたが、ほとんどコースがないのだ。1本道で、山べきハイキングコースがあるだけなのだ。まずは、車で目ぼしい集落やお堂、神社を回ってみた。雨が強く降っていて、山道かなり不便である。結局、あっちこそ回って、山の家の集落あたりで、45分程度の道を見つけた。道はあっても、行き止まりだったり、シカ除けのネットで覆われていて、寄り道ができないのである。それどころか、サル除けなのか、電流も流れていて、間違って触れたM君が飛び上がるハプニング。ちょっと、子供たちにはこれは怖いなー。いろいろ歩いたけれど、雨もつよくなってきて、この一応、このあたりで工夫してもらうしかなさそうだ。
追ハイがダメになることもあるので、予備として京都府唯一の鍾乳洞も見学に行くことにした。あわせて、丹波自然公園のプールも外から見学しておいたが、こちらは、営業が始まれば、一度、泳ぎにいったほうがいいのかもしれない。会場としては文句なかったが、追ハイだけは、ちょっと課題が残ったのかしれない。
60年の実績と、内容は文句なしを自負しているので、どうぞ、奮ってご参加をお願いしたい。ただ、会場の都合で、7月13日(金)が〆切なので、お早めにお申し込みください。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/08/kodomo2012-8.htm
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