東海支部宿泊法座IN犬山
昨年から、宿泊法座が始まった東海支部。 昨年は三河の蒲郡市で、今年は、愛知県犬山市が会場だ。
東海支部の方が中心だったが、高山からも95歳のおばあちゃんも含めて、3名のお参りがあった。夜には、鵜飼見物のあと、Kさんの感話もたっぷりいただいたし、2グループでの分級座談の時間も持てた。
法話は、3席。 このところ、宿泊法座での法話のテーマは決まっている。一座だけなら、時間的に難しいが、だいたい、3座から4座あるので、『大経』の「法蔵菩薩の発願」に焦点をあてた講話風の法話にしている。といっても、四十八願や重誓偈までいく時間はないので、『大経』の構造や特色、そして、『大経』の法蔵発願の因である、五十三仏の出現から、「讃仏偈」、さらに、選択思惟の世自在王仏と法蔵菩薩の決意表明の対話を中心にいただいた。さらに、その法蔵菩薩の発願を、親鸞様は、いかに味わい、お取り次ぎくださっているのかを、『正信偈』の「法蔵菩薩因位時~重誓名声聞十方」で、頂いた。
ただ、皆さんの反応は、だいたい決まったパターンがあって、勿体ないことだが、右の耳から左の耳に流れしまって、自分の胸に実感として届かないという方が多いことだ。でも、、よく考えるとこれは当たり前のことで、そんなところで歎いていても、仕方がない。
どこまでも私は自己中心のこの泥凡夫である。浅ましい罪悪や機の真実についてのお説教なら、わが身に引き寄せて聴くこともできよう。しかし、ここは、お釈迦様の金口ご説法、法蔵菩薩の直々のお説法として聴かせていただくところである。そんな虚仮の身に、清浄・真実そのものの私に、自利利他円満した法蔵菩薩の真実の願心が、易々と響いて実感などできるわけがないのである。「難しい」のも当然だし、「実感がない」のも当然なのだ。第一、それを勉強して、覚えて、知識で分かっただけなら、なんの意味もない。そんな虚仮のわが身のレベルに留めようとする聴き方ではなく、この無明・無知の身でありながら、光明無量の智慧そのもの、寿命無量の慈悲そのもののおいわれを、一方的に、わが身にお聞かせに預かっている事実に触れさせていただくチャンスなのである。
そして、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、ご法に帰られていただくのである。
これがない限り、どんなに気張ってきいてみたところで、いつまでも遠いお話だ。
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