機無
6月の輪読法座。
誌上法話、「聖人流罪の張本人」の2回目。親鸞聖人を流罪にしたのは、歴史的に朝廷や旧仏教の権力者であろう。しかし、それを「我よし」の正当性や正義感で批判するだけでは、浄土真宗のお法りにはならない。ご法、お念仏のお徳は、外ではなく、自己の内にこそ、その破邪の矢印が向くことであろう。
そうなると、専修念仏への批判は、その辺偏さと、「念仏ひとつ」という荒唐無稽さにあった。平たくいうと、「余善、余行を否定して、たった念仏一つで、最高の浄土、仏になれるわけがない」「専修念仏のみを選び、他を否定するとは何事か」ということになる。
でも、これをよくよく味わえば、外部からの批判ではない。まさに、私の自力心そのものではないか。「たった念仏ひとつで」-そんなわけはないのではないか。。いや、そうであっても、この胸は承知しない。もっと何かあるのではないか。こんな心のままで、救われるわけはない…などなど。
結局、聖人が流罪になられたのは、権力者の横暴ではない。
まさに、念仏の教えをいま聞いている、私自身の中にあるのだ。そのことを教えていただいてこそ、聖人の流罪の意義があるのだはないだろうか。
ところで、輪読法座では、悟朗先生もお元気で、こんな法話を聞いても、まだグズグズと並べる求道者に対して、「機無、円成、回施」のお心をお取り次ぎくださった。
特に、真実心も、清浄心も、決定心も、廻向心も大悲心のかけられない。それどころか、自身が、真実のかけらのない機無であることこさえも分からないのが、その機無の機無たる所以なのである。そのために、立ち上がり、円かに仕上げ、それを真実、清浄のかけられないものに、一方的に廻向くださろうというのであるが、機無の私に、そんな真実そのもののお働きなどが分かるわけもないのである。
機無の身に、真実そのもののお働きが、分かるわけがない。だからこそ、この頭を垂れてただお聴かせいただくのである。お聞かせいただくままに届けられる仕組みが、円かに成就し、そして廻向される以外に、お救いはないのである。
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