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新緑の高山支部法座

 さて高山支部法座である。

 今回は、高山以外からの参詣者が多かった。遠く福岡からのご夫妻や、岐阜からは1歳のお子さんを連れた夫婦連れでの参加もあった。あとは、最近の常連で、京都、金沢、そして愛知県と、8名がF家に宿泊された。1、2年前に比べると、ずいぶん、参加者の顔触れは様変わりしている。2日目には、富山からも夫妻で参加されたので、分級座談会になった。

 法話は、3座だったが、メーンは、「大経」の『讃仏偈』をいただくことにあった。このところ続けて取り上げている法蔵菩薩の発願だが、五十三仏の出現に続き、世自在王仏が現れ、その会座に感激のあまり、国王の座を捨て、比丘となり、「諸々の生死勤苦の本を抜かしめたまえ」との願いのもと、世自在王仏に弟子入れをされる法蔵菩薩が、師仏を褒め讃え、自らの願(四弘誓願と、四十八願のもとになる三摂の願)を述べ、そしてその決意の証明を請われるものである。師の仏を讃えるものであっても、それはそのまま、自らそのような仏になりたいという理想の表明であり、阿弥陀仏の姿そのものだといってもいい。

 ただ、よくご聴聞されているはずの重鎮から、たとえば「世尊」という言葉が出ただけで、お釈迦さまを讃えているのだと混同されたり(世尊は、如来や仏など並ぶ仏の十号のひとつ)、「讃仏偈や重誓偈は、親鸞聖人がまとめられたのですか」という質問があったりして、基礎的な部分での知識が足りないことも思い知られれた。もちろん、いつもお伝えしているのだが、そのつもりでご聴聞されていなかったのだろう。逆に、講義といか、お勉強のように思われたら、残念だ。しかし、五十三仏の過去諸仏方から、世自在王仏が現れ、そして、法蔵菩薩のご出現の流れひとつにも、諸仏を善悪相対の救いを越えた、絶対に救われることのない極重悪人の救いを実現させるためのご苦労とお聴かせいただくのだ。決して、単なる知識では収まらない、阿弥陀様の直々の私一人を救わんがためものだとお聴かせに預かると、勿体なくも、ただ「南無阿弥陀仏」しかないのである。

 昼座は「三首のご詠歌章」を予定していたが、なるべく分かりやすいものと思って、妙好人、三河のお園さんの、三つのエピーソドを中心にいただいた。たまたま、次ぎの華光誌の誌上法話に題材になっているのと、F家に「お園」という冊子本があったからである。「いつも火事場の真っ最中」と、「お差し支えなし、ご注文なし」、そして「疑いの歌」四首である。どれも、我が胸(機)の自力での詮索から、「仰せひとつを聞く」という、他力への転換が鮮やかに示されているものばかりてある。ちなみに、参考にした800円の「お園」の冊子は、ネットの古本で、 32,000円~49,800円で売られていたので、みんなびっくり。たかだか、80ページほどの本で、その種本は、「信者めぐり」にほぼ同じものなのにである。みんな、何気なく並べてあるF家の本棚が、お宝だらけに思えてきた。いやはや、法の中味ではなく、古本としての金額の価値に驚くのだから、凡夫丸出しである。そんなものが、真実そのもの、清浄そのものである法蔵菩薩の願心を語り、聴くのであるから、まったくのふしぎなのてある。
 参考までに、以下をどうぞ。購入された方はお知らせください。

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