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法林寺・別修永代経法要

Img_0836 兵庫県相生市、法林寺の別修永代経法要。

 このところ、真実の教、浄土真宗である『大経』に依って、法蔵菩薩の発願の有り様を、主に、法蔵菩薩と、師匠仏である世自在王仏さまとの問答中心にいただいている。しかし、寺院布教では、お聖教の言葉だけでと、勉強や講義のようで、難Img_0777しいと敬遠されてしまう。かなり身近に引き寄せた、今生の話題もしないと聞いてもらえない。といって、ウケばかり狙っていては、本末轉倒である。もちろん、身近な言葉で、深い内容をお伝えするのがいちばんいいのだけれども、それだけなく、参詣の皆さんにも、難しくてもお聖教の言葉にも触れてもらいたい気もしている。同じことは、一方通行の説教・法話で終わらないで、信仰座談会が持てればいいのだけれども、こちらも寺院布教では、難しい。

 ただ、ここは、理解があるお寺なので、ご住職からも「好きなようにやっImg_0775てください」と、有り難いお言葉をいただている。それで、初日は、阿弥陀様の「誓願」のお心を、「生死勤苦の本を抜かしめたまえ」という大悲心の塊のようなお言葉をもとに、阿弥陀様からのお手紙ワークを行ない、みんなで分かち合いをした。けっこう、皆さん、それぞれの聞法の歩みがあり、いまの立ち位置がはっきりしてくる。

 夜座は、人数が少なかったので、後席は、ワImg_0837ークを中心に分かち合いをすることにした。藤井美和さんの死生学を紹介しながら、別れのワーク。知識で分かっていることと、体験的に分かっていること、さらに、身につくことの違いがはっぎりしてくる。同時に、死ぬことの見つめ方でも、三人称(他人の死)、二人称(身近な死)、一人称(私の死)の立場が異なると、まったく意味が変わることもよくわかった。3月の法話大会でもこのワーク紹介があったが、「目に見える大切なもの」、「目に見えない大切なもの」、「大切な活動」、「大切な人」をそれそれ3つずつチョイスして、それを眺めてお別れしていくのである。選ぶところでさまざま葛藤が生まれ、また別れるところで葛藤が生まれる。そのあと、分かち合いでの反響は大きく、それぞれが自分の言葉で語ってもらえたのは、収穫だ。

 そのまま本堂で、懇親会を兼ねて、皆さんに感想を窺う。ここは、女性より、男性の参詣が多いのが特徴。それも、壮年会だったり、門徒推進の役割を担う方で、積極的に発言くださる。いちばん、顕著で、面白かったことは、中年・熟年の男性(夫)と女性(妻)の違いである。男性ほど、「たいせつな人」に連れ合い(妻)が残る。自分以外では、いちばん頼りにしている男性が多い。ところがである。女性の側は、3人の中に、連れ合い(夫)が入りもしていない。子供や孫に心が移っているのである。このすれ違いの妙は、夫婦生活の縮図だろう。
 また、参詣のあるご住職が、「ひとつ、ひとつ破っていくと、結局なにも残らないと思っていたが、切なさ、空しさだけが残った」といわれたが、まさに体験したからの言葉である。同じく、「結局、何も残られないのではなく、ゴミの山、業だけが残るんですね」という気づきを話してくださる方もあった。とにかく、みんなで分かち合いが出来たのは、よかった。

  翌日は、一転、満堂の参詣で、縁にも女性会の方が座っておられた。別修永代経ということで、初め参拝されるという方もあった。法話は、『重誓偈』だったが、かなり難しいようだ。皆さんの反応も堅い。後半は、少し軌道修正しながら、貧苦を救う、大施主のおこころと、「名声」のおこころについて、身近なたとえでお取り次ぎした。前半の印象以上に、皆さん、熱心にお聞きとりくださったのが、有り難かった。これをご縁にもう一歩、ご聴聞に向かってもらえれば、うれしい。

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