西光寺法座
週末の東京支部法座が終わって、月曜日から水曜日の3日間は、播州は宍粟市山崎町の西光寺での別修永代経のご法縁をいただく。大遠忌のシンポジュウム以来のご縁だ。
寺院布教は、原則、40分程度の法話が2回を一座として、100分程度で終わる。ただし、信仰座談会がないので、次ぎの法座までは休みとなるので、随分、楽だ。もっとも、一人で、6座もご法話があるのだから、教案は必要だ。ここは、終了後に、本堂で懇親会がある。それも、ただの飲み会ではなく、一人一人に、法話の感想を尋ねたり、全員、演壇に立って一言抱負を語ったりの時間もある。直接、お話を聞けるので、ぼくには貴重な時間。檀家さんからは、「難しかった」との声。「するどく見つめられて怖かった」という方もあったが、この方は、悟朗先生のご示談にもあわれ、かなりご法がすすんでおられる。あとは、お寺のご住職方。ただし、みんな酒豪で、酔いが回るにつれてどんどん遅くなるのが、欠点だ。初日は、一応、午前2時に終了したが、別室での二次会を覗いてしまって、気がつくと4時前になっている。ここでぼくは退散したが、5時まで続いたようだ。それでも、住職は、法座の前に、早朝の檀家参りをすませていて、かなりタフマンだ。さすがに、2日目は、2時前には失礼した。
今回の法座は、やはり法蔵菩薩の発願がテーマである。華光の法座でも、このところをこのテーマで法話しているが、実は、訳がある。ここでは寺報と組の通信(この題字が悟朗先生)を出されているが、そこに亀井鑛先生が、「正信偈」についての連続講話を書かれている。それが、いま、源空上人に入るところで、あと数回で終わるそうである。岡山での飲み会だったか、「次は、四十八願のこころを、かりもんさんにお願いしたいのですが」との依頼があった。酔った勢いで、「いいよ、善太郎さんを模して、第一願、南無阿弥陀仏、第二願、南無阿弥陀仏、第三願、南無阿弥陀仏……と、書くから」と、安請け合いしたが、その手は、ダメだといわれた。四十八回もあるの? これは長丁場になる連載だ。
どうせ、四十八願に触れるのなら、その前のお心からいただこうと、まずは、『大無量寿経』やお経、そして阿弥陀様の誓願について総説で一席、法蔵発願の因をテーマにして、五十三仏の出現から「讃仏偈」で一席、選択思惟の世自在王仏と法蔵菩薩の対話で一席、四十八願の要旨で一席(ここはこれから連載するので簡単に)、そして「重誓偈」で一席、そして、その発願についての親鸞聖人の『正信偈』の御言(法蔵菩薩因位の時である)で一席と、一々を経典の言葉にあたりながらお取り次ぎさせていただいいた。
すべて釈尊の金口を通して、直接、世自在王仏と法蔵菩薩の真実の対話を、そして阿弥陀様の直接の呼びかけをお聞かせに預かるのだ。まさに、「仏願の正起本末」をお聞かせにいただくのだが、仏願とは、単なる願いではない。正覚をかけものにされた諸仏への「誓い」に裏打ちされた、「願い」であることが、尊いのだ。しかも、その「願い」は、私一人として届けられているのだ。
三日間のご縁で、この阿弥陀様の「誓願」のお心に触れさせていただけただろうか。もちろん、お聖教の言葉だけだと、一般のご門徒さんにはかなり難しいので、ゲームや小道具なもどあれけれ駆使して工夫した。でも、良薬は口に苦しだ。毒にも、薬にもならない法話をするつもりはない。たとえ苦くても、その中心だけは外さないようにお取り次ぎさせてもらった。
「阿難、あきらかに聴け、いまなんぢがために説かん」と、釈尊の呼びかけに、
「やや、しかなり。願楽して聞きたてまつらんと欲ふ」と、阿難尊者は応答されて、初めて、法蔵菩薩の発願の有り様が、私へと届けられてきたのである。
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