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真宗法座の集い

 「真宗法座の集い」も、節目の第10回。

 今回は、ずいぶん新鮮な顔ぶれになって、ほとんどが初参加の方。しかも、この手の座談を中心にした集いなどは、敬遠気味の方が多かったのが特色だ。この法座は、みんなが自主的、意欲的に動くことでより活発な集いになることを目指している。その意味では、この顔ぶれで、このスタイルは戸惑いがあるのかもしれないと思っていたが、なんのことはない。

 グループ分けをあせることもなく、最初の自己紹介から、じっくりと関わりが生まれるような形で進んだ。それでいて、2日目には、4~5名程度の4グループに分かれたが、そのどれもが充実しいたようで、あっという間に時間が過ぎていったという感想が多かった。そして最後には、大半の方が笑顔になって、和気あいあいとした雰囲気である。結局、これまでの9回とは違った展開でありながら、充実した集いとなったようだ。

 ぼくのグループは、ぼくを含めて4名だけ。フォーカシング的な関わりをしたいと表明していたので、難しいと敬遠されたようだ。単なる座談会ではなく、ぼくからの説明や解説を交えたり、ワークを交えたりしながらも、流れで2人の人に関わることができた。

 個人的には、フェルトセンス(意味を含んだ身体感覚)に焦点が当たるような、積極的な聴き方をこころがけた。単なる状況説明でも、思いや考え(往々にして社会的な「ねばならない的」な正解)でもなく、状況や人に対する「からだの感じ」に焦点を当ててもらった。おかげで、どの方の話にも、全神経を集中して、聴かせていただけた。30分もするとかなり疲労が激しかったが、聴くことが、こんなにも楽しく、また充実して思えたのは、新鮮な感覚だった。

 ただ、普段の法座の聴き方は、具体的な状況説明を追いかける聴き方なので、今回の「感じ」に焦点があったた場合には、イメージ的だったり、抽象的だったりするので、同じメンバーの方の反応は難しい。せっかく微妙な、大切なものに触れておられるのに、不用意な一言で、あっという間に、その微妙な大切な何かが消えたり、傷つかれたりすることにも、もっと注意が必要だった。もしかすると、長時間になる場合は、一対一の示談や面談の場面でないと、まだ皆さんの理解を獲られないのだろう。カウンセリングマインドやミニ・カウンセリングが法座で活用されるようになっても、ほんとう定着するのは、(大げさではなく)何十年もの時間がかかっている。いまもまたその途上にあるのだがら、ましてやいまや数名の理解者しかない状況では、根気よく、焦ることなくお伝えしていくしかないだろう。

 とにかく、ぼくにとっては今後の聴き方を、(つまりは法座のあり方)の方向を、確実に示唆されるマイルストーンの法座になったのは確かだ。

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