身に触れて聞く
土曜日の輪読法座に続いて、日曜日は、聖典講座の講師を勤めることになった。しかも午前中は、近所の同人宅での年忌法要が入っている。ここでも、お『正信偈』を勤めて、短めのご法話。易しいことだが、まず手を合わせさせてもらえる身、そして「南無阿弥陀仏」と称名させてもらえる幸せを、共に味わった。これも、同人ならではのことである。いろいろと積もる話もあったが、大急ぎで戻って、聖典講座へ。
『正信偈』の道綽章の2度目である。
悟朗先生の懇切丁寧な解説プリントがあるので、特になんの準備もいらないのが助かる。
だだ、そのせいで、サーッと読んだだけで、分かった気になってしまう。もちろん、難しくて分からなくても、知識を得て安心してしまっているのだ。それで、この章の全体での位置づけをしたあと、「プリントを裏返してください」とお願いして、黒板に今日、取り上げる『正信偈』の本文を板書書きして、一文字、一語句ずつを皆さんに尋ね、押さえて、味わいながら、全体の意味をとっていく方法に切り換えた。単なる説明ではなく、皆さんに質問を投げかけながら、進行していく中で、気付かされたことがある。
たとえば「六度とは何か」と問うと、「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧」と知識的な正解はスラスラと答え、その説明もできる。しかし、それが、私の身の正反対な姿、六慢と結びつけてきて、何を忍辱していくのかを、そうでない実態の姿はどんな身なのかを問うても、なかなか結びつかない。ましてや、『讃仏偈』で六度の行を押さえながら、法蔵菩薩のご修行に関連した質問になると、戸惑われていく方がほとんどだった。
ただ、一つ覚えで、「万善自力」は貶められた低いもので、虚仮の行。南無阿弥陀仏の他力だけが、最高の行だということが分かったら、それで分かった気になっているのだが、そこをもし少し掘り下げて、わが身のところに結びつけて聞かせてもらっていきたい。
なぜ、「万善自力」を貶められたのか。それは、道綽禅師当時の時代背景、特にその末法観-いま生きている末法という時代認識と、その末法に生きざるえない私の物柄(機)を抜きにしては、味わうことはできないだろう。けっして、「万善自力」そのものを貶められているのではない。もしそうなら、釈尊すら貶めていくことになるし、第一、法蔵菩薩のご修行そのものが、私のための六度万行の積み重ね以外にはないわけである。そこに、清浄にして、真実の行が、微塵も末と通って行なうことのできない時代と、その時代に沈没して苦悩する虚仮の私にかけられた、大悲のお働きを抜きにして、「円満徳號」をただひとつ専ら称えよ、というお勧めをいただこくことはできないのだと味わわせてもらった。
参加者の中には、「意地悪な進行の仕方で、ドキドキした」という声があったが、多少なりとも、受け身の姿勢ではなく、わが身に聞いていただけたことが有り難かった。
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