真・仮・偽判
4月の伝道研究会。
先月に続き、1月から教相判釈に入っている。
前回の復習で、同じ繰り返しなので、以下は読み飛ばしてもらってもいいが、一応、教相判釈を説明しておこう。
教相判釈とは、教判(きょうはん)とも略され、釈尊一代仏教の相状差別を、批判し解釈するという意味だ。八万四千といわれる釈尊の教門は、対機説法で、千差万別の一代仏教の教義を組織的に統一して、自ら信奉する教義の地位を開明する「仏教統一論」ということが出来るもので、古来より、それぞれの宗派にある。同時に、これは「教門廃立論」をも意味しており、一宗の必要条件となり、これによって、自宗の優越性を示そうとするものである。ことに親鸞聖人の場合、自ら一宗開宗し、教祖たらんという思い毛は頭なく、あくまでも、恩師法然上人の真宗を明かにしようとするものである。そこには、自ら己が生死出ずべき道に身命ををかけられた求道歴といっていい。血みどろの求道の果てに、ついに三願転入の体験を経て、そこには唯一の成仏道を身証し発見しえた、法悦と仏徳讃嘆の叫びとして理解すべき性質ものである。従って、そこに貫かれている求道実践の精神を見逃しては、宗祖の教判の真意を得ることは出来ないのであろう。
その宗祖の教判には、(1)二双四重判、(2)真・仮・偽判と続き、(3)一乗海釈に入って、いよいよ浄土真宗の浄土真実たる所以、その絶対的立場が明瞭になってくる箇所だ。
今月は、真・仮・偽判は、「偽」の立場について窺った。古来より、大きく七種にまとめられているが、要は、迷信的邪教を指している。すべて、因果の道理に背き、それゆえ成仏道を妨げる教えだといっていい。完全な捨てものである。当然、従来からの扱いは、捨てものとしてただ貶められる面のみ強調されているが、それにしても、親鸞聖人は、「化身土巻」末を大半を割き、さまざまな引用を駆使しながら、「偽」を明示されているのである。つまりは、それだけ私の迷いが深かったからではないか。さまざまな宗教的な遍歴をしている内の大半は、まったくの占いや呪いの類、現世利益の類の邪教に惑うばかりで、仮の聖道門や自力門の真実の入り口にさえも至らなかったのだ。それは、いまの私自身の腹底をみれば、明らかなのである。何も世間の人達のことを指しているのではない。これが、私自身の闇の姿なのであって、その闇の現れがまったく真実に至らない偽そのものを頼りにし、ただただそこに惑う私に対しても、聖人は丁寧にその迷いのいちいちを示して、一刻も捨てるべき「偽」の立場を、懇切にお教えくださっているのだと味わわせてもらった。
そんな長い長い迷いの遍歴は、長い長いお育てがあったればこそ、やっとのことで、仏道の入り口に届けていただいたのである。しかしながら、ここからも、第十八願一本では簡単にはすまなかった。聖道門の自力修行、そして、十九願、二十願の浄土内の自力の教えがなければ、極重悪人を救うという第十八願には、一筋縄で転入できなかったのである。つまりは、あまりにも自惚れが強すぎるのだ。まさに、邪見驕慢の悪衆生、おのれ自身の姿が一番分からないのである。
来月は、一乗海釈を詳しくいただきます。日時が変則なので、要注意。
◎5月23日(水)夜7時30分~9時50分。ただし、華光同人が対象です。
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