南無阿弥陀仏ひとつで足りていた
「これまで、ご本願が私一人のためとはどうしても思えなかったが、今のご法話で、初めて、私一人のためと聞こえてきました。南無阿弥陀仏ひとつで足りていたじゃ……」と、その語尾がまだ終わる前に、その人は、畳み頭を擦りつけた懺悔と号泣され、そして、延々と高声念仏が続いていった。その声に、一同も驚きながら、有り難く一緒にお念仏させていただいた。
東京支部法座の最後の座談会。
その時は、お勧めも、ご示談があったわけでもない。3座のご法話が終わった感想を分かち合たときの出来事である。
今回の法座は、法蔵菩薩の願心に焦点をあてて、『大経』の法蔵発願の因について、五十三仏の出現から「讃仏偈」、さらに、選択思惟の世自在王仏と法蔵菩薩の対話、そして、その発願についての親鸞聖人の『正信偈』の御言(法蔵菩薩因位の時である)を、一々を経典にあたりながらお取り次ぎさせていただいた。
しかし、座談会の感想は皆さん、しどろもどろである。その圧倒的なスケールに飲み込まれたのか、それとも慣れない経典の言葉の連続に戸惑われたのかもしれない。まあ、これも致し方はない。浅ましい自己の姿なら、絶えず、消えず続いていくのだが、釈尊の口を通して、直接、世自在王仏と、法蔵菩薩の真実の対話をお聞かせに預かるのである。迷いのぼんくら頭では、及びもつかない世界である。だから、普通は、お伽話か、神話として、自分の器で理解しようと勤める。しかし、そうではない。真実だと思っていた私の側が虚仮不実であって、作り話と思っていた法蔵菩薩の私にかけてくださったご苦労こそが真実であったと、天地がひっくり返って、大転換(廻心)をいただくのか、浄土真宗なのである。そうなると、分かる、分からないではない。凡夫の口をとおして、如来様どうしの真実の対話に、ただ参画させていただくことを喜ばせていただけばいいのである。
もし、勉強や教義を覚え、私が理解するような聴き方をしているのなら、けっして、「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とは、「私一人のご本願」と頷くことはできないだろう。問うべきは、お経や教義ではなく、それに照らされている私自身なのである。
それにしても、まったく不思議としかいいようのないご縁で、ここまでたどりつかれた母・子であった。これまでの誤った因襲の教えを破っるためにさまざまに求められて、ネットで最勝庵ブログhttp://www15.ocn.ne.jp/~saisho/から、華光会のことを知られたというのである。私は、初めてお会いする方で、華光の法座も二度目だという。しかし、もう何年も聴聞されているかのように後生の一大事に焦点は当っておられたが、初日は、自分の心が中心のご聴聞で、自分の居所を饒舌に吐かねばならないところにおられたようだ。
それが、まったく不思議にも、庄松同行の如く、『大無量寿経』のお心は、「庄松、お前を助くるぞ、ここにも、庄松、お前を助くるぞ、ここにも、庄松、お前を助くるぞ…」と、私一人のお救いに転ぜられていかれたのである。
この目の前で、諸仏の称讃される南無阿弥陀仏が響き渡っている。まさに、仏説のみまことの世界があった。
そう、探し、探し求めていた法なれど、すべて、南無阿弥陀仏ひとつで足りていたのである。
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