日曜礼拝の修了式があった。
ほんとうは、4月の新年度なので、新1年生や、新しい先生の入学式があってもいいのだが、なかなか新しい先生が増えないのが悩みだ。その代わり3月に行なえなかった、中学3年生の女の子の修了式(卒業式)を行なった。まさに、15年間、日曜学校(礼拝)や仏の子供大会と共に歩んで来てくれたのだ。
修了証と記念品の念珠を、悟朗先生から手渡してもらった。そのあと、サプライズで、「贈る言葉」を用意していた。上の子に打診すると、ぜひやりたいと意気込んでいる。小学校の卒業や中学入学式が続いたので、考えることがあったのだろう。昼前には、何か原稿を用意していたが、本番は、何も見ずに、短い言葉たったが、しっかりと伝えることができた。
高校生になっても、ぜひ、お手伝いをお願いしたいものだ。京都での新大学生の先生候補もおられるので、こちも、ぜひ、顔を出してもらいたい。
法話は、ネット生中継されたが、数名の方がライブで観てくださったようだ。
大切な方をなくされた先生が、その方の法名にちなんで「月」光のご法話。阿弥陀様の無量光、不可思議光は、超日月光ではあるが、同時に、この世では、太陽の光、月の光のごとくも譬えられている。
ただ、自らサンサンは光輝く日輪とは異なり、月の光は、その太陽の光の反射によって、やさしく、穏やかに私達を照らしてくれている。月自体は、闇く、冷たい天体なのだ。まさに、阿弥陀様の光を身いっぱいにうけた、泥凡夫の先達によって、私達の行く先がやさしく、静かに照らされるごとくである。
ある先生に、お釈迦様のお説教は、しばし満月の月光のもとで開かれたという話をきいたことがある。暑いインドでのこともあろうが、まさに、これが私達を静かに照らすお光そのものの象徴である。
ふと、「涅槃経」に説かれる「月愛三昧」のことを思い出した。
お涅槃間際の釈尊が、阿闍世のために涅槃に入られずに、正体不明の高熱と瘡の死に至る病に苦しむ阿闍世王に向けて、まずは、その体の苦しみを除くために、月愛三昧に境地で、清らかで、すがすがしい、まさに月光のような光明を放たれて、まずは、阿闍世の体の苦しみを除かされいくのである。
しかし、仏様の神通力のありのままを、身にうけたにも関わらず、まだ阿闍世は、「私ひとりのため」の救いということを疑い、次ぎの一歩を躊躇し、自分の思いに固執し続けていくのである。痛々しい姿そのものになっても、王としてのプライドが邪魔していたのだろう。名誉や地位、肩書があればあれで、厄介なのものはない。もっとも、何もないのに、無理にそれらを求めて固執することほど、扱い憎いものはないが、結局、仏法は、真っ裸のわが身ひとりのところでお聞かせに預かるしかないのだが、往々にして、聴いてきたこと、年数、知識、頑張ってきたというプライドを頼りにしか聴けない、まさに弱い身なのである。
その阿闍世を、直接動かしたのは、ほかならない善友のギバ大臣の暖かく、厳しく、巧みな真実の言葉であった。そして、月の光の中、ギバ大臣に守られながら、静かに、釈尊の元へと、歩みを進められていくのである。
月の光の中での静かなお念仏も、また尊い。