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2012年4月の19件の記事

永代経法座のご案内

  5月3日(祝)・4日(祝)・5日(祝)の三日間、永代経法要法座が勤まります。

 事務準備や打ち合わせは、以前から進んでいるが、今日から、有志による掃除やおみがきが始まりました。ご苦労さまです。掃除は、京都支部や仏青の方だけでなく、前泊してお手伝いくださる方もあって、少人数ながら、何度かに分散しながらおこなう形式です。

 3日間とも、昼座に、法要があります。3日間で、「阿弥陀経」「観経」「大経」(四十八願)の「浄土三部経」が勤まります。

 ご法話は、七名のご講師による七座あり、その後、分級座談会の時間もあります。

 参加はまだまだ十分いけます。どうぞ、奮ってご参加ください。1座だけの出席でもかまいません。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/05/eitaikyo2012-5.htm

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修了式~月愛三昧~

 日曜礼拝の修了式があった。

 ほんとうは、4月の新年度なので、新1年生や、新しい先生の入学式があってもいいのだが、なかなか新しい先生が増えないのが悩みだ。その代わり3月に行なえなかった、中学3年生の女の子の修了式(卒業式)を行なった。まさに、15年間、日曜学校(礼拝)や仏の子供大会と共に歩んで来てくれたのだ。

 修了証と記念品の念珠を、悟朗先生から手渡してもらった。そのあと、サプライズで、「贈る言葉」を用意していた。上の子に打診すると、ぜひやりたいと意気込んでいる。小学校の卒業や中学入学式が続いたので、考えることがあったのだろう。昼前には、何か原稿を用意していたが、本番は、何も見ずに、短い言葉たったが、しっかりと伝えることができた。

 高校生になっても、ぜひ、お手伝いをお願いしたいものだ。京都での新大学生の先生候補もおられるので、こちも、ぜひ、顔を出してもらいたい。

 法話は、ネット生中継されたが、数名の方がライブで観てくださったようだ。

 大切な方をなくされた先生が、その方の法名にちなんで「月」光のご法話。阿弥陀様の無量光、不可思議光は、超日月光ではあるが、同時に、この世では、太陽の光、月の光のごとくも譬えられている。

 ただ、自らサンサンは光輝く日輪とは異なり、月の光は、その太陽の光の反射によって、やさしく、穏やかに私達を照らしてくれている。月自体は、闇く、冷たい天体なのだ。まさに、阿弥陀様の光を身いっぱいにうけた、泥凡夫の先達によって、私達の行く先がやさしく、静かに照らされるごとくである。

 ある先生に、お釈迦様のお説教は、しばし満月の月光のもとで開かれたという話をきいたことがある。暑いインドでのこともあろうが、まさに、これが私達を静かに照らすお光そのものの象徴である。

 ふと、「涅槃経」に説かれる「月愛三昧」のことを思い出した。
 お涅槃間際の釈尊が、阿闍世のために涅槃に入られずに、正体不明の高熱と瘡の死に至る病に苦しむ阿闍世王に向けて、まずは、その体の苦しみを除くために、月愛三昧に境地で、清らかで、すがすがしい、まさに月光のような光明を放たれて、まずは、阿闍世の体の苦しみを除かされいくのである。

 しかし、仏様の神通力のありのままを、身にうけたにも関わらず、まだ阿闍世は、「私ひとりのため」の救いということを疑い、次ぎの一歩を躊躇し、自分の思いに固執し続けていくのである。痛々しい姿そのものになっても、王としてのプライドが邪魔していたのだろう。名誉や地位、肩書があればあれで、厄介なのものはない。もっとも、何もないのに、無理にそれらを求めて固執することほど、扱い憎いものはないが、結局、仏法は、真っ裸のわが身ひとりのところでお聞かせに預かるしかないのだが、往々にして、聴いてきたこと、年数、知識、頑張ってきたというプライドを頼りにしか聴けない、まさに弱い身なのである。

 その阿闍世を、直接動かしたのは、ほかならない善友のギバ大臣の暖かく、厳しく、巧みな真実の言葉であった。そして、月の光の中、ギバ大臣に守られながら、静かに、釈尊の元へと、歩みを進められていくのである。

 月の光の中での静かなお念仏も、また尊い。

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GM初日~植物園から鴨川へ~

Img_0486_2 GM初日。快晴。

   今年は、4月28日~30日とImg_0496、5月3~6日とまとまった連休で、1、2日を休めると、9連休という会社もあるようだが、毎年、永代経法座がある、ぼくには関係ない話。むしろこの時期は遠出を避けて、人込みのいない近場Img_0498_2で、ゆっくりすることばかりだ。

好天に誘われImg_0493て、午後から、北山の植物園に向かう。まだ初日の土曜日の午後ということもあって、車も、逆に平日や普段の日曜日よりも、空いている。午後からだと、けっして大きくない,駐車場も余裕があっImg_0524た。

ずいぶん、久しぶりに来園する。数年前に、ここで雨に打たれて、Img_0545子供が長期、体調を崩して以来だから、4年ぶりぐらいか。

  すでに桜は終わっているが、チューリップやパンジー、ポピーなどの身近な花が、見頃だ。年中、いろいろなものが楽しめるようになっている。それで、ひとつImg_0525のものに特化されていないので、量で圧倒されるということはないが、いろいろな種類の花がきれいだ。

  こんな暑い日にと思ったが、温室にも入る。うーん、緑が多くて少し涼しいのかとも思うが、ナナは、蒸し暑いので早くでたがった。こちらは、熱帯の珍しい花々やImg_0612_2草木。バナナの花ですか?

 それにしても今日は、かなり暑い。

 日が当たる大芝生をみんな避けている。売店のアイスクリームは、もう底の方にチラホラと残るだけで、今日はアスイクリームばImg_0495_2_3かり売れていると、店員がいていた。やはり4月にして、早くも真夏日になった。もっとも、子供たちは、太陽の下で、走ったり、側転したりしている。元気だ。

 日頃、家のなかで仕事をするImg_0634_2身には、強い日差しに当たるだけでも、かなりバテてきた。

 閉園時間前に、すぐ横の鴨川の河川敷に移動した。こちら側は西日をまともにうける。鴨川の中にある飛び石を歩いて、向こう岸渡った。タオルがあったので、川に入る。Img_0672_2_250年、京都に住んでいるが、鴨川に足をつけるのは、初めてかもしれないなー。

 川岸は、大木が太陽を遮り、木陰を作ってくれている。川面に流れる風が、気持ちいい。元気を回復して、バトミントなどの遊Img_0693具をした。

  バケツをヘルメットがわりにしているImg_0691男の子たちが、裸で水遊びをしている。

 ここからは、比叡山がこんな風に見えるんだなー。

  短い時間だったが、日頃の喧噪を離れImg_0690て、子供たちといっしょに、穏やかな時間をすごすことができた

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西光寺法座~のどかな春の巻~

Img_0414_2 西光寺法座の法座合間、散歩を兼ねて、お寺の周辺を散策する。すぐ横を揖保川と、その支流が流れていている。

 まるで初夏を思わせる陽気Img_0417だ。

 河川敷は、さすがに桜は終わったようで、菜の花が咲き乱れている。

 いろいろな水鳥が飛び交っているが、コンパクトカメラには、うまく写真にはおらまられなImg_0453ったが、境内にも野鳥の声がよく聞こえてきた。

 蓮華やあやめなとが、あちこち咲いて、春爛漫というところ。

 何もないが、のぞかな田園の風景が広がって、心地よい。Img_0458

 このすぐ近くには、山伏弁円のお墓がある。なんでも、弁円の母上が、ここの出だそうで、最後は、明法房として、聖人からも、その往生を「うれしく候」」讃えられている。今回は、そこでま足を延ばさなかったが、次Img_0411ぎの機会があれば、ぜひに…。

  お寺の裏手に、面白い名前のお店を発見。「えー、さすがご法どころ。ご法話に合わせてくれたの? あれよくみると「生起」じゃないのか。一字Img_0427違いの「正起」でした。まったく関係なかったのに、瞬間、喜んだ。でも鮎料理で、仏教に関係するわけはなImg_0465いわなー。

 戻って、お斎をいただく。参拝の方にも、振舞われている。昔ながらのお膳をまもりながら、「おわん」講をつくって維持されているそうだが、ここもまた、若手の後継者不足が悩みだそうだ。昔ながら、精進のImg_0452素朴な味わいながら、ぼくの年齢になると、こんなやさしい料理が、いちばんの御馳走になってきた。

Img_0483 最終日には、恒例のコーラスでの音楽法要。これもまた、仏婦の有志の皆さんによるもので、志願して、隣寺のご門徒さんも加わっておられるそうだ。「沙羅」というグループだが、4月にちなんで、「花祭りの歌」の披露も。大和島根に咲きいでしー…
 華やかな「花まつり」の歌もいいが、この静かなメロデーもまたしんみりしていい。

 ご法座だけなく、盛り沢山の3日間の法縁でした。

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西光寺法座

Img_0471 週末の東京支部法座が終わって、月曜日から水曜日の3日間は、播州は宍粟市山崎町の西光寺での別修永代経のご法縁をいただく。大遠忌のシンポジュウム以来のご縁だ。

 寺院布教は、原則、40分程度の法話が2回を一座として、100分程度で終わる。ただし、信仰座Img_0474談会がないので、次ぎの法座までは休みとなるので、随分、楽だ。もっとも、一人で、6座もご法話があるのだから、教案は必要だ。ここは、終了後に、本堂で懇親会がある。それも、ただの飲み会ではなく、一人一人に、法話の感想を尋ねたり、全員、演壇に立って一言抱負を語っImg_0396たりの時間もある。直接、お話を聞けるので、ぼくには貴重な時間。檀家さんからは、「難しかった」との声。「するどく見つめられて怖かった」という方もあったが、この方は、悟朗先生のご示談にもあわれ、かなりご法がすすんでおられる。あとは、お寺のご住職方。ただし、みんな酒豪で、酔いが回るにつれてどんどん遅くなるのが、欠点だ。初日は、一応、午前2時に終了したが、別室での二次会を覗いてしまって、気がつくと4時前になっている。ここでぼくは退散したが、5時まで続いたようだ。それでも、住職は、Img_0447法座の前に、早朝の檀家参りをすませていて、かなりタフマンだ。さすがに、2日目は、2時前には失礼した。

 今回の法座は、やはり法蔵菩薩の発願がテーマである。華光の法座でも、このところをこのテーマで法話しているが、実は、訳がある。ここでは寺報と組の通信(この題字が悟朗先生)を出さImg_0479れているが、そこに亀井鑛先生が、「正信偈」についての連続講話を書かれている。それが、いま、源空上人に入るところで、あと数回で終わるそうである。岡山での飲み会だったか、「次は、四十八願のこころを、かりもんさんにお願いしたいのですが」との依頼があった。酔った勢いで、「いいよ、善太郎さんを模して、第一願、南無阿弥陀仏、第二願、南無阿弥陀Img_0480仏、第三願、南無阿弥陀仏……と、書くから」と、安請け合いしたが、その手は、ダメだといわれた。四十八回もあるの? これは長丁場になる連載だ。

 どうせ、四十八願に触れるのなら、その前のお心からいただこうと、まずは、『大無量寿経』やお経、そして阿弥陀様の誓願について総説で一席、法蔵発願の因をテーマにして、五十三仏の出現から「讃仏偈」で一席、選択思惟の世自在王仏と法蔵菩薩の対話で一席、四十八願の要旨で一席(ここはこれから連載するので簡単に)、そして「重誓偈」で一席、そして、その発願についての親鸞聖人の『正信偈』の御言(法蔵菩薩因位の時である)で一席と、一々を経典の言葉にあたりながらお取り次ぎさせていただいいた。

 すべて釈尊の金口を通して、直接、世自在王仏と法蔵菩薩の真実の対話を、そして阿弥陀様の直接の呼びかけをお聞かせに預かるのだ。まさに、「仏願の正起本末」をお聞かせにいただくのだが、仏願とは、単なる願いではない。正覚をかけものにされた諸仏への「誓い」に裏打ちされた、「願い」であることが、尊いのだ。しかも、その「願い」は、私一人として届けられているのだ。

 三日間のご縁で、この阿弥陀様の「誓願」のお心に触れさせていただけただろうか。もちろん、お聖教の言葉だけだと、一般のご門徒さんにはかなり難しいので、ゲームや小道具なもどあれけれ駆使して工夫した。でも、良薬は口に苦しだ。毒にも、薬にもならない法話をするつもりはない。たとえ苦くても、その中心だけは外さないようにお取り次ぎさせてもらった。

 「阿難、あきらかに聴け、いまなんぢがために説かん」と、釈尊の呼びかけに、
 「やや、しかなり。願楽して聞きたてまつらんと欲ふ」と、阿難尊者は応答されて、初めて、法蔵菩薩の発願の有り様が、私へと届けられてきたのである。

 

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南無阿弥陀仏ひとつで足りていた

「これまで、ご本願が私一人のためとはどうしても思えなかったが、今のご法話で、初めて、私一人のためと聞こえてきました。南無阿弥陀仏ひとつで足りていたじゃ……」と、その語尾がまだ終わる前に、その人は、畳み頭を擦りつけた懺悔と号泣され、そして、延々と高声念仏が続いていった。その声に、一同も驚きながら、有り難く一緒にお念仏させていただいた。

東京支部法座の最後の座談会。

その時は、お勧めも、ご示談があったわけでもない。3座のご法話が終わった感想を分かち合たときの出来事である。

今回の法座は、法蔵菩薩の願心に焦点をあてて、『大経』の法蔵発願の因について、五十三仏の出現から「讃仏偈」、さらに、選択思惟の世自在王仏と法蔵菩薩の対話、そして、その発願についての親鸞聖人の『正信偈』の御言(法蔵菩薩因位の時である)を、一々を経典にあたりながらお取り次ぎさせていただいた。

しかし、座談会の感想は皆さん、しどろもどろである。その圧倒的なスケールに飲み込まれたのか、それとも慣れない経典の言葉の連続に戸惑われたのかもしれない。まあ、これも致し方はない。浅ましい自己の姿なら、絶えず、消えず続いていくのだが、釈尊の口を通して、直接、世自在王仏と、法蔵菩薩の真実の対話をお聞かせに預かるのである。迷いのぼんくら頭では、及びもつかない世界である。だから、普通は、お伽話か、神話として、自分の器で理解しようと勤める。しかし、そうではない。真実だと思っていた私の側が虚仮不実であって、作り話と思っていた法蔵菩薩の私にかけてくださったご苦労こそが真実であったと、天地がひっくり返って、大転換(廻心)をいただくのか、浄土真宗なのである。そうなると、分かる、分からないではない。凡夫の口をとおして、如来様どうしの真実の対話に、ただ参画させていただくことを喜ばせていただけばいいのである。

もし、勉強や教義を覚え、私が理解するような聴き方をしているのなら、けっして、「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とは、「私一人のご本願」と頷くことはできないだろう。問うべきは、お経や教義ではなく、それに照らされている私自身なのである。

それにしても、まったく不思議としかいいようのないご縁で、ここまでたどりつかれた母・子であった。これまでの誤った因襲の教えを破っるためにさまざまに求められて、ネットで最勝庵ブログhttp://www15.ocn.ne.jp/~saisho/から、華光会のことを知られたというのである。私は、初めてお会いする方で、華光の法座も二度目だという。しかし、もう何年も聴聞されているかのように後生の一大事に焦点は当っておられたが、初日は、自分の心が中心のご聴聞で、自分の居所を饒舌に吐かねばならないところにおられたようだ。

それが、まったく不思議にも、庄松同行の如く、『大無量寿経』のお心は、「庄松、お前を助くるぞ、ここにも、庄松、お前を助くるぞ、ここにも、庄松、お前を助くるぞ…」と、私一人のお救いに転ぜられていかれたのである。

この目の前で、諸仏の称讃される南無阿弥陀仏が響き渡っている。まさに、仏説のみまことの世界があった。

そう、探し、探し求めていた法なれど、すべて、南無阿弥陀仏ひとつで足りていたのである。

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さっそく

Img_0389 連続して初夏のような好天だ。

 午前中、予約していた散髪へ行く。駐輪場は、近くの梅小路公園を利用することになった。Img_0386

 公園内の遅咲きの桜は、盛りを超えているが、まだ充分、見応えがあった。

Img_0388 時間まで、30分ほどあったので、水族館で時間をつぶすことにした。

 こんなに早く、く年間パスが役立つことになるとはなー。40分もあれば、充分に見れる規模だけど、こんな利用が多くなりそうだ。Img_0328

  せっかくなので、元をとろうとする、あいImg_0331かわらずの貧乏性。

 でも、これだけでも、充分、非日常の光景。

 頭がスッキリしたところで、午後から、映画を1本。Img_0326
 生まれて初めてエチオピア映画を観た。『テザ~慟哭の大地~』は、外国での黒人差別、国内での内乱、そして知識人としての古い因習や女性差別との戦いと、けっして、楽しい素材はない暗い(現実)物語だ。でも、希望がほのかに灯るエンImg_0376ディングで終わるのがすくい。

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真宗カウンセリング研究会総会

  4月は恒例の真宗カウンセリング研究会の総会がある。

 大きな組織でも、営利などの利害関係もない小さな集まりなので、総会といっても、月例会同様、参加者は、10名に満たない。

 それで、参加者の居所を聞き合い、あとは昨年の各セッションや集いを、各自の言葉で振り返り、分かち合うという感じで進行した。感じたり、気付いたりすることが多くて、いろいろと話したがっている自分がいるなー。

 さて、少ないながらも、参加者の背景や意識も多彩だ。そんななかで、真宗(仏教)と、カウンセリング(心理療法)の接点、出会い、融合や統合を指向しているご縁が、徐々にだけ増えていることが、なんとも頼もしい。真宗からカウンセリングに出会う人、カウンセリングから真宗に出会う人もいる。まったく在家(俗人)でありながら、浄土真宗に帰依し、そこからカウンセリングや心理療法に関心をもたれた方。逆に、カウンセリングの専門職から、浄土真宗の僧籍を目指している方もおらる。少数でも、引き寄せられるようにこの会に集ってこられることが、まったく不思議なのだ。きっと既製教団のような規格品の教えにはない、生きた人への実践的なアプローチの中から、本来の浄土真宗のありように触れて、そこに魅力を感じ、自らその道を歩もうとする人達がおられるということではなかろうか。
 51年目を向えて、細々ながらも、今後も楽しみだ。

 さて、月例会では、ロジャーズ論文を離れて、英国の第一人者、ブライアン・ソーン著「の「カール・ロージャズ」に取り組むことにした。なぜ、この本を選んだかは、真カ研の会報でも触れているが、一つはカウンセリングとスピリチュアル(霊性)との問題もあるからだ。まあ、詳しくは、後日にゆっくりと。

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座布団

 朝、宅配業者からかなり大きな荷物が届いた。しかも、3個もある。

 ちょっとした引っ越しでもであるのかと不審に思って、送り名を見て、すぐに思い当たった。同人宅から、”あるもの”が寄贈されることになっていたのだ。

Img_0311 玄関先にブツをおいてまま、ほくは所用にでた。
 今日は好天で、路上の温度計は、夏日になっている。

 昼過ぎに戻ってきたら、梱包がとかれて、こんな姿で干されている。さすがは、T嬢である。

 ブツの正体は、東海支部の方がご喜捨Img_0314くださった「座布団」だった。

 これでもまだ半分で、残りは、「明日も干す」とT嬢は張り切っている。明日は、ぼくも洗濯物を干したいんですが……。

 この座布団たちも、永代経法座でデビューいたします。

 ご寄付、ありがとうございました。
 荷造りや運賃だけでも、たいへんなことだったと思います。

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これからの法座予定

 現在、華光会HPでの新しい更新が出来ない状態が続いています。トップページの今週の法座や、大遠忌ブログも停まったままです。皆様にはご不便をおかけしていますが、4月の法座案内は、以下でご確認ください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/index.html#201204

 さて、今週末から来週にかけての法座です。

1)東京支部法座

 日時=4月21日(土)~22日(日)
 会場=全林野会館
 詳しくは、以下のページを参照ください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/04/tokyo2012-4.htm

2)西光寺永代経法座(出講法座)

 日時=4月23日(月)昼・夜 24日(火)昼・夜 25日(水)朝
 会場=宍粟市山崎町御名「西光寺」
 3日間続く、寺院への出張布教なので、法話が中心で座談会などはありませんが、夜座終了後は、活発な懇親会もあります。西光寺さんは久しぶりです。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/04/saikouji2012-4.htm

3)日曜礼拝

 日時=4月29日(日)昼1時30分~4時30分
 会場=華光会館

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2012/details/04/nitirai2012-4.htm

 東京、西光寺と、5日連続での宿泊法座があって、日曜礼拝も出席予定。そして、すぐに、5月3日~5日には永代経法座が控えるハード日程で、その間に取り組む、問題や仕事も山積しているので、しばらくはしんどい日々が続きそうです。

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真宗法座の集い

 「真宗法座の集い」も、節目の第10回。

 今回は、ずいぶん新鮮な顔ぶれになって、ほとんどが初参加の方。しかも、この手の座談を中心にした集いなどは、敬遠気味の方が多かったのが特色だ。この法座は、みんなが自主的、意欲的に動くことでより活発な集いになることを目指している。その意味では、この顔ぶれで、このスタイルは戸惑いがあるのかもしれないと思っていたが、なんのことはない。

 グループ分けをあせることもなく、最初の自己紹介から、じっくりと関わりが生まれるような形で進んだ。それでいて、2日目には、4~5名程度の4グループに分かれたが、そのどれもが充実しいたようで、あっという間に時間が過ぎていったという感想が多かった。そして最後には、大半の方が笑顔になって、和気あいあいとした雰囲気である。結局、これまでの9回とは違った展開でありながら、充実した集いとなったようだ。

 ぼくのグループは、ぼくを含めて4名だけ。フォーカシング的な関わりをしたいと表明していたので、難しいと敬遠されたようだ。単なる座談会ではなく、ぼくからの説明や解説を交えたり、ワークを交えたりしながらも、流れで2人の人に関わることができた。

 個人的には、フェルトセンス(意味を含んだ身体感覚)に焦点が当たるような、積極的な聴き方をこころがけた。単なる状況説明でも、思いや考え(往々にして社会的な「ねばならない的」な正解)でもなく、状況や人に対する「からだの感じ」に焦点を当ててもらった。おかげで、どの方の話にも、全神経を集中して、聴かせていただけた。30分もするとかなり疲労が激しかったが、聴くことが、こんなにも楽しく、また充実して思えたのは、新鮮な感覚だった。

 ただ、普段の法座の聴き方は、具体的な状況説明を追いかける聴き方なので、今回の「感じ」に焦点があったた場合には、イメージ的だったり、抽象的だったりするので、同じメンバーの方の反応は難しい。せっかく微妙な、大切なものに触れておられるのに、不用意な一言で、あっという間に、その微妙な大切な何かが消えたり、傷つかれたりすることにも、もっと注意が必要だった。もしかすると、長時間になる場合は、一対一の示談や面談の場面でないと、まだ皆さんの理解を獲られないのだろう。カウンセリングマインドやミニ・カウンセリングが法座で活用されるようになっても、ほんとう定着するのは、(大げさではなく)何十年もの時間がかかっている。いまもまたその途上にあるのだがら、ましてやいまや数名の理解者しかない状況では、根気よく、焦ることなくお伝えしていくしかないだろう。

 とにかく、ぼくにとっては今後の聴き方を、(つまりは法座のあり方)の方向を、確実に示唆されるマイルストーンの法座になったのは確かだ。

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9月の「大遠忌法要」の相談

 日高から、Rさんが来館されて、事務所での9月の「大遠忌法要」の相談。

 これまでは、華光誌に同封したチラシやポスターの作成でお世話になり、内容や要項の打ち合わせを重ねてきたが、いよいよ具体的な流れにそった仕事や役割に入ってきた。

 まずは第1回目の流れに添った進行の打ち合わせである。

 3月の「法話大会」でも感じたが、定例の行事とはまた違った準備が必要になってきた。しかし、3月は、まだ1泊で、しかも、華光会館が会場だった。今度は、2泊3日。会場も、3箇所を往来しなけれどならないので、この点だけでも、スムーズな進行をするためにも、、かなり綿密な打ち合わせが必要だという共通認識をもった。特に、開会がハートピアになったこと、そして2日目が、午前中の大遠忌法要は華光会館だが、そのあとの記念講演は、ハートピア、そして夜のパーティーは別会場への移動となるのだ。

 メーンの行事進行以外にも、冊子の作成、記録のための写真やビデオ製作の打ち合わせ、そして記念品と、やらねばならない仕事も山積していることも、改めて確認した。従来どおり、定例の行事をこなしながらも、少ない事務員だけで対応するには難しいこともあるようだが、核になってくださる方を増やしながら、頑張ってやるしかなさそうだ。

 Rさんなどからの依頼があれば、同人の皆様のご協力をお願いします。

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入学式

Img_0206  長女の中学校の入学式。

  初めての制服姿(ブレザー)に、本人は照れるお年ごろ。いまは、髪も短くして、ボーイッシュにしたいようだ。 小学校の卒業式と同様に、母親は着物姿で、娘よりも目立っているのかもしれない。

 とてもハキハキとした名調子の校長先生のImg_0250元気ぶりが、ある意味おもしろかった以外は、式自体は粛々と進んだ。 

 ひとつだけ寂しいこともあったが、娘の晴れの舞台には変わりない。

Img_0233 クラス記念写真の風景を、ぼくも撮影したあとは、彼女の誕生日を兼ねた入学祝いを行なった。やっと12歳になったばかりだが、琵琶湖畔のRカフェで豪快なイタリアン鍋をつつく。なぜか、さまざまなカクテルが飲み放題のセットなのに、車というのは間が悪かった。店長から、娘へのお祝いスィーツのブレゼントもあったけど、Img_0254なぜか、アメリカ国旗。子供たちは、食事の合間に、外でバスケットやJボードなどをして、また食事を楽しむという自由なスタイルだ。最後には、持参のバスケボールが琵琶湖に流されるという悲劇もあったが、食事をゆったりと楽しんだ。

 海がない水族館で魚に触れ、玄界灘で夕日を眺め、そして今日は琵琶湖畔に佇む。4日連続で、水辺にたたずImg_0264むことになった。

 たしかに、気分は、ビリー・ホリディーの I  Cover the Waterfrontである。もっとも、これは「波止場に佇みて」と訳した方が適正の歌詞の内容だけれど、まだ波止場にはたたずんではいないなー。

 

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Img_0186  早めの夕食を終えて、海を眺めにいく。

 風光明媚な白砂の海岸線が続く、福間海岸である。

 潮が引いて、Img_0176干潟が広がっている。夕日を背に潮干狩りを楽しみ親子連れ以外は、いまは静かな海だ。

 風は、強い。先日の爆弾低気圧の強風の余韻が残っているのだろう。

 快晴。しかし、4月にしては、まだ肌寒い。

 かなりの時間、ここで静かに海を眺めている。

 さまざまな思いが去来し、あるものは過ぎ去り、あるものはいつまでもImg_0191留まり、その重みに潰されそうになる。いや、むしろ腸が張り裂けそうな気分に襲われるのである。

 それでも、空は雲ひとつなく晴れ渡っている。
 そして、美しい夕日が水平線に沈もうとしている。

 なぜか、井上陽水の歌詞の一節が頭を巡るが、正確には思いだせない。能古島は、博多湾なので、ここからは離れている。

 冷たい風に、手足がかなり冷えてきた。コートを羽織ってくればよかった。

 でも、時間まで、もうしばらく海を眺めていよう。

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願心~九州支部法座~

  福岡県福津市での九州支部法座である。今回は、名物の鹿児島からの参加者は不参加になられたが、九州各地からのお参りがあったが、最近は、熊本からの参加者が一番元気である。

 3席のご法座のテーマは、法蔵菩薩の「願」である。

 例の阿弥陀さまからの手紙は、皆さん、真剣に取り組んでくださった。結局、お育てをいただいたままがいまの文章になってきて、有り難い。大半が情緒的な有り難い文章が並ぶ中で、おひとりだけ、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ただただ親鸞様・高僧方のお言葉を信じて称えておくれ」というシンプルな意味内容が、いちばん尊かった。さすがに、伊藤康善先生からのご縁をいただている方だ。これこそ正信偈の内容でもある。ただ、聞くだけでなく、「書く」、そして、それを声に出して「読む」、この作業だけで、まったく届き方が違ってくる。

 2席目は、大無量寿経の法蔵菩薩の発願について、現代語訳を交えながら共に、仏様と仏様同士の、真実と真実のお言葉をお聞かせに預かった。過去の五十三仏の連続無窮としての悟りの連鎖と、その広大な力をして、かつそのお救いから漏れ続けている私の迷いの生死勤苦の本を抜いてみせるぞ、と立ち上がらねばならなかった、真実そのものの御方の大悲のお心と、その根本の願いこそが、浄土真宗なのである。

 そして最後は、同じ箇所の正信偈のお言葉で、発願の時と、所、その有り様の八句をいただきながら、なぜ、ここでは兆載永劫のご修行が省略されていて、五劫のご思案の「願」のみに收められているのかという、聖人のお心を共に味わった。

 それにしても、普通なら、まるでお伽話か、神話や寓話のような、釈尊によって説かれた、法蔵菩薩(阿弥陀様)と世自在王仏様との対話を、真実と真実同士のまことの対話としていただけるようになったのである。いや、そうとしか聞こえなくなってしまった身が、とてもうれしい。まことのご縁に出会うまでは、私の思いや生活こそがリアリティーのある真実そのもので、こんなお経は作り物としか聞こえなかったり、なんとか意味をもたそうと解釈していたのが、とうとう大逆転したのである。にもかかわらず、あいかわらず、虚仮不実の今生の一大事に汲々しているのであるが…。

 参加の方の声にもあったが、如来様のお心をお取り次ぎくださった親鸞様によって、如来と如来との尊い出会いの場面に立ち会わせてもらった想いである。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

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京都水族館

Img_0063 春休み。週末よりも平日を狙って、京都水族館に出かけた。

 受付で、2~3時間待ちもあると聞いていたので、開業時間の9時を目指した。おかげで、入場はスムーズ。Img_00651年間フリーバスがで、2回分料金でなので、年間パスを購入した。子供の分も合わせると、それなりのお買い物だった。

 最初は、館内の混雑もそこそこといったところだ。すぐに、オオサンショウウオ。これが目玉のひとつとは、かなり滋味である。第一、じっとしているおられImg_0067るものなー。特に、日本の固有種は大人しくて、獰猛で、繁殖力の強い、中国種に席捲されて、ほとんどが雑種になって、生態系が壊れてきたといのだ。ここも例外に漏れず、人間が自分たちの都合で食用に輸入したものが繁殖しImg_0101のだから、駆逐される外来種もたまったものではない。素人がみても、両者の違いは、簡単にはわからないけどね。

 イルカのショーが始まるまで30分前なのに、「お急ぎください。満Img_0102席になります」とのアナウンスがある。さすがに平日とはいえ春休みだ。ドンドン人が増えて、立ち見も出ている。

 東寺の塔と新幹線が見えている。いつもImg_0111の見慣れた風景に、イルカが飛ぶとは、まったく信じられない感じがすると、子供たちも興奮気味だ。ところが、楽しみにしていたショーが、ガッカリした内容。下の子が、「つまらない~」を連発してImg_0094いる。内陸型水族館にイルカショーは不要という声に配慮したのか、それとも準備がまだ出来ていないのか、イルカの生態を紹介をする以外は、ほんの少しジャンプがある程度で、あっという間に終わった。結局、待ち時間の方が長かった。しかも、かなり外国人も多かったが、生態の説明も日本語ばかりなので、ますますつまらないだろう。Img_0130それより、ぼくは、公園内で繰り広げられていた、なぞの集団体操の方を見て楽しんだいた。

 館内に戻ると、お昼を前に混雑してきたImg_0132あっという間に、1周が終わったしまった。もう1周見て回ることにしたが、今度は、雑踏の人々を見るようなものである。エー、これが大水槽という規模だ。確かに、内陸型では国内最大級とあるが、内Img_0120_2陸型が少ないということで、海辺の大型水族館と比べてはいけないのだろう。

 結局、真新しくてきれいという以外は、年パスを買ってしまったことを後悔した。子供たちの評Img_0081判もいま一つだったが、梅小路に水族館が出来た事だけは不思議がった。それでも、子供たちはお土産を買ったら満足した。
 中には、ゆっくり食事するレストランもないので、堀川通まで戻って、いきつけのカフェでランチをし、歩いて戻った。

 ここまでは、散歩コImg_0143ースで足を延ばすこはもある。散髪に、大学にと、生活圏なので、年バスもけっして無駄にはならないだろう。今度は、平日の閉館前を狙ってみよう。

 その後、あっちこっちで、いろいろな人と話題にしたけれど、皆さん、とてもくつきがよかった。物珍しさで、関心はあるということかなー。

 

 

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真・仮・偽判

  4月の伝道研究会。

 先月に続き、1月から教相判釈に入っている。
 前回の復習で、同じ繰り返しなので、以下は読み飛ばしてもらってもいいが、一応、教相判釈を説明しておこう。

  教相判釈とは、教判(きょうはん)とも略され、釈尊一代仏教の相状差別を、批判し解釈するという意味だ。八万四千といわれる釈尊の教門は、対機説法で、千差万別の一代仏教の教義を組織的に統一して、自ら信奉する教義の地位を開明する「仏教統一論」ということが出来るもので、古来より、それぞれの宗派にある。同時に、これは「教門廃立論」をも意味しており、一宗の必要条件となり、これによって、自宗の優越性を示そうとするものである。ことに親鸞聖人の場合、自ら一宗開宗し、教祖たらんという思い毛は頭なく、あくまでも、恩師法然上人の真宗を明かにしようとするものである。そこには、自ら己が生死出ずべき道に身命ををかけられた求道歴といっていい。血みどろの求道の果てに、ついに三願転入の体験を経て、そこには唯一の成仏道を身証し発見しえた、法悦と仏徳讃嘆の叫びとして理解すべき性質ものである。従って、そこに貫かれている求道実践の精神を見逃しては、宗祖の教判の真意を得ることは出来ないのであろう。

 その宗祖の教判には、(1)二双四重判、(2)真・仮・偽判と続き、(3)一乗海釈に入って、いよいよ浄土真宗の浄土真実たる所以、その絶対的立場が明瞭になってくる箇所だ。

  今月は、真・仮・偽判は、「偽」の立場について窺った。古来より、大きく七種にまとめられているが、要は、迷信的邪教を指している。すべて、因果の道理に背き、それゆえ成仏道を妨げる教えだといっていい。完全な捨てものである。当然、従来からの扱いは、捨てものとしてただ貶められる面のみ強調されているが、それにしても、親鸞聖人は、「化身土巻」末を大半を割き、さまざまな引用を駆使しながら、「偽」を明示されているのである。つまりは、それだけ私の迷いが深かったからではないか。さまざまな宗教的な遍歴をしている内の大半は、まったくの占いや呪いの類、現世利益の類の邪教に惑うばかりで、仮の聖道門や自力門の真実の入り口にさえも至らなかったのだ。それは、いまの私自身の腹底をみれば、明らかなのである。何も世間の人達のことを指しているのではない。これが、私自身の闇の姿なのであって、その闇の現れがまったく真実に至らない偽そのものを頼りにし、ただただそこに惑う私に対しても、聖人は丁寧にその迷いのいちいちを示して、一刻も捨てるべき「偽」の立場を、懇切にお教えくださっているのだと味わわせてもらった。

 そんな長い長い迷いの遍歴は、長い長いお育てがあったればこそ、やっとのことで、仏道の入り口に届けていただいたのである。しかしながら、ここからも、第十八願一本では簡単にはすまなかった。聖道門の自力修行、そして、十九願、二十願の浄土内の自力の教えがなければ、極重悪人を救うという第十八願には、一筋縄で転入できなかったのである。つまりは、あまりにも自惚れが強すぎるのだ。まさに、邪見驕慢の悪衆生、おのれ自身の姿が一番分からないのである。

 来月は、一乗海釈を詳しくいただきます。日時が変則なので、要注意。

 ◎5月23日(水)夜7時30分~9時50分。ただし、華光同人が対象です。

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華光誌の発送

 華光誌71巻2号の発送作業。

 助っ人3名を得て、事務所の3名と、6名で作業。

 今号は、折り込みチラシが多数入っているので、発送作業もかなり時間がかかった。

Img_0060 9月の「大遠忌法要」の「チラシ」と、案内状、「祝賀会」のご案内、地図、申込書の5枚セットに、振り替え用紙が同封されているので、ご確認ください。業者から、5枚セットにしたものが届けてもらったので、この点では大いに助かった。

 それに加えて、5月の「永代経法座」のご案内、6月の第2回「東京講習会」のご案内、そして、少し早いが8月の「仏の子供大会」のご案内と、合計8枚セットになっている。ただし、複数冊の方には、8枚セットだけでなく、大遠忌の5枚セットのものだけしかない方もあるので、その点も注意ください。

 これだけ複数の案内状を送るのは、初めてのことだ。写真のように入っていて、これに振替用紙が加わる。

 それでも、案内から漏れたものに、4月14日(土)~15日(日)の「真宗法座の集い」や、7月の「壮年の集い」など、本部行事も目白押しだ。

 ぼく個人、それに加えて、週末事に各地での法座やWSがあったり、身辺も慌ただしいのだが、不思議と元気にやらせてもらっていることが、有り難い。

 ただし、今年に入ってから、「正信偈」の編集作業が停滞しているのは、悩みのタネ。これは、雑事や騒音を離れて、どこかに籠もって集中しないとダメなのかもしれんなー。

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身に触れて聞く

 土曜日の輪読法座に続いて、日曜日は、聖典講座の講師を勤めることになった。しかも午前中は、近所の同人宅での年忌法要が入っている。ここでも、お『正信偈』を勤めて、短めのご法話。易しいことだが、まず手を合わせさせてもらえる身、そして「南無阿弥陀仏」と称名させてもらえる幸せを、共に味わった。これも、同人ならではのことである。いろいろと積もる話もあったが、大急ぎで戻って、聖典講座へ。

 『正信偈』の道綽章の2度目である。

 悟朗先生の懇切丁寧な解説プリントがあるので、特になんの準備もいらないのが助かる。

 だだ、そのせいで、サーッと読んだだけで、分かった気になってしまう。もちろん、難しくて分からなくても、知識を得て安心してしまっているのだ。それで、この章の全体での位置づけをしたあと、「プリントを裏返してください」とお願いして、黒板に今日、取り上げる『正信偈』の本文を板書書きして、一文字、一語句ずつを皆さんに尋ね、押さえて、味わいながら、全体の意味をとっていく方法に切り換えた。単なる説明ではなく、皆さんに質問を投げかけながら、進行していく中で、気付かされたことがある。

たとえば「六度とは何か」と問うと、「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧」と知識的な正解はスラスラと答え、その説明もできる。しかし、それが、私の身の正反対な姿、六慢と結びつけてきて、何を忍辱していくのかを、そうでない実態の姿はどんな身なのかを問うても、なかなか結びつかない。ましてや、『讃仏偈』で六度の行を押さえながら、法蔵菩薩のご修行に関連した質問になると、戸惑われていく方がほとんどだった。

  ただ、一つ覚えで、「万善自力」は貶められた低いもので、虚仮の行。南無阿弥陀仏の他力だけが、最高の行だということが分かったら、それで分かった気になっているのだが、そこをもし少し掘り下げて、わが身のところに結びつけて聞かせてもらっていきたい。
  なぜ、「万善自力」を貶められたのか。それは、道綽禅師当時の時代背景、特にその末法観-いま生きている末法という時代認識と、その末法に生きざるえない私の物柄(機)を抜きにしては、味わうことはできないだろう。けっして、「万善自力」そのものを貶められているのではない。もしそうなら、釈尊すら貶めていくことになるし、第一、法蔵菩薩のご修行そのものが、私のための六度万行の積み重ね以外にはないわけである。そこに、清浄にして、真実の行が、微塵も末と通って行なうことのできない時代と、その時代に沈没して苦悩する虚仮の私にかけられた、大悲のお働きを抜きにして、「円満徳號」をただひとつ専ら称えよ、というお勧めをいただこくことはできないのだと味わわせてもらった。

  参加者の中には、「意地悪な進行の仕方で、ドキドキした」という声があったが、多少なりとも、受け身の姿勢ではなく、わが身に聞いていただけたことが有り難かった。

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